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2008.07.15

第十三回

「凧になりそうなお母さん」の巻

堀越 英美

「凧になりそうなお母さん」の巻

 一度でいいから6時間以上寝てみたい。

 最近朝がつらくて仕方がないのだった。月並みな悩みではあるけれど、赤子が生まれてからというもの連続して寝られたためしがない、2~3時間おきにおっぱいを求めて起きるのはざらで、時には1時間おきという夜もある。寝ながらおっぱいを飲ませれば再び眠りに落ちるので、夜泣きというほどでもなく、まあいいやと甘受してきたものの、もうすぐ1歳になるというのに1時間おきに起こされるのはさすがにつらい。そんな日の朝はまさにドーン・オブ・ザ・デッド状態。産後はホルモンの影響で短時間の睡眠でも疲れにくくなると育児雑誌で読んだ記憶があるが、そのホルモンもそろそろ弾切れらしい。野坂昭如の戦争童話「凧になったお母さん」ではないが、お母さん干からびてしまいそう。

 オンボロ凧のテイで「眠い……」とボヤいていたら、夫が会社の帰りに『赤ちゃんがすやすやネンネする魔法の習慣』(アネッテ・カスト・ツァーン/ハルトムート・モルゲンロート著, 古川まり訳)という本を買ってきた。赤ちゃんが朝までぐっすり眠ってくれる「すやすやネンネ・トレーニング」実践の書だ。早い子で2日、遅くとも2週間で効果テキメンということで、ドイツでベストセラーになったらしい。

「すやすやネンネ・トレーニング」とは何か。決められた時間一人きりで赤子を泣かせておくことで、一人で寝ることに慣れさせるという荒療治である。最初は3分たったらあやし、徐々に5分、7分と一人きりにする時間を増やしていく。要は赤ちゃんに夜泣いても無駄なのだと悟らせる、実に欧米らしいクールな育児法なのだ。さっそくその日から実践してみることにした。

 まず3分、私の部屋の布団に寝かせて一人きりにしてみる。

「フギャー!」

 ふだん泣いたまま放っておかれたことがない我が子。呼んでもいっこうに来る気配のない親に憤ったのか、甘え泣きにだんだん怒気が混じってくる。「この刺身を作ったのは誰だぁぁぁ!!!!」と怒鳴る海原雄山をほったらかしにしている気分だ。まったく落ち着かない3分を過ごしたあと、両親そろって怒りと恐怖に打ち震える雄山先生のご機嫌をうかがいに行く。2分間あやしたあと、再び部屋の外へ。

「ウワー! ワウワウワー!(なぜララァを巻き込んだ!)」

 まるでララァを亡くしたアムロのごとく、聞き届けられない憤怒に悲しみがいやます哀・乳児。外に出た両親を呼び戻そうと、伝い歩きでふすままでたどり着いてばんばんふすまを叩く。罪悪感にかられながらも、「坊やだからさ…」と無視を決め込み5分経過。もはやだっこしても口を∞の形にして「ウーッウーッ」と怒りをぶつけるばかりでなかなか泣き止まない。落ち着いたと思ったら、また部屋の外へ出る時間。

「オオウ、オオオオウ……」

 あきらめと嘆きの乳児ブルースが虚空に響き渡る。そんなこんなで1時間後、泣き疲れた子はようやく眠りについた。

「ねえ、これめっちゃ精神的につらいんだけど。本当に効くの?」
「うん、賛否両論だからねえ。2ちゃんねるだと虐待っていう人もいるし」
「いやいや、賛一辺倒なのを買ってきてよ」

 これまで読んできた育児書の常識でいえば、確かにこれは虐待なのだった。赤ちゃんの泣き声に反応しないでいると、赤ちゃんは親に要求を伝えることをあきらめてサイレントベビーになり、ひいては人との関わり方がわからない引きこもりに育つ…というような話をさんざん目にしたせいで、このトレーニングはどうにも気乗りしない。さらにその日はよほど気が高ぶったのか、ふだんよりも多めに起こされて乳をねだられるはめになってしまった。これを次の日も実践するのは精神的にも肉体的にも厳しそう。Amazonのレビューを見ると成功者がいっぱいいるようなので、実効性のあるやり方には違いないのだろうけども。

 ただ、我が子が夜泣く理由がわかったのは収穫だった。添い寝しながらの授乳(育児用語で添い乳)で寝かしつけていたのが原因だったようだ。乳と眠りが関連づけられていたため、夜目覚めたときに「乳がない! さっきまであったのにおかしいやんけ! 乳だ! 乳もってこい! ンギャー!」とパニックになっていたらしい。せめて添い乳の習慣だけでもなくそうとがんばってみたが、だっこしようが子守歌を歌おうが背中をトントンしようが、乳を飲まさないことには頑として泣き止まずに断念。熟睡への道は険しい……。

 次に夫が買ってきたのは、『赤ちゃんが朝までぐっすり眠る方法』(エリザベス・パントリー著, 竹迫仁子訳)。

「わたしは赤ちゃんをひとりにして、泣いても放っておいて寝かせることには賛成しません。泣いている子のそばに一〇分おきに行って、手は出さず、なぐさめの言葉をかけるだけでも、やっぱりいけません。そんなことをしなくても、やさしく愛情あふれる方法で、赤ちゃんを安らかに朝までぐっすり眠らせることはできるのです。」

 冒頭からネンネ・トレーニング全否定。泣かせっぱなしにして罪悪感にかられることなく、母親もぐっすり寝られる方法が書いてあるという。やたら本が分厚いのが気になるが、その方法とは一体。

 まずやらねばならないことは、赤ちゃんの昼寝状況、活動内容、夜の目覚めの状況を克明にメモし続けること。この時点で面倒くさすぎて脱落しそう。そして昼間たっぷり栄養をとらせ、就寝儀式を決め、早寝させ、1日のスケジュールをたて計画的に過ごさせ、10日間の就寝プランを組み……。最終的には「辛抱が大切です」。

 ハタと思う。それができる人間だったら、私の人生どんなにかまともだったことだろう。思えば母乳なのも添い寝・添い乳を続けたのも「泣いたらとにかくくわえさせればいい」という楽さに目がくらんでのことだった。要は真人間になれということなのか。いきなりハードルが高い。とりあえず夜間の授乳時間を少なくする方法が載っていたので、これを実践してみることにしよう。真人間に生まれ変わるか、乳吸われすぎて凧になって大空を駆け巡るか。ここがふんばりどころの運命の分かれ道。

 あなたがもし空を見上げたとき、平べったい母親が空中を舞っていたら、それは夜泣きと戦って戦ってひっそり散った一人の女の悲しい骸だと思ってほしい。今は意味がわからないかもしれないが、もちろん書いている当人だって意味がわからない。 

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