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2014.07.23

第4回

『神聖喜劇 第四巻』解題 無料試し読み
唐沢俊一(評論家)著 記憶の魔魅

『神聖喜劇 第四巻』解題 無料試し読み<br />唐沢俊一(評論家)著 記憶の魔魅

“プレミア本”電子化プロジェクト第4回は、『神聖喜劇』の第四巻。巻末に収録されている評論家の唐沢俊一さんの解題を公開します。

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記憶の魔魅   唐沢俊一(評論家)

 米映画『ファントム・オブ・パラダイス』(ブライアン・デ・パルマ監督 一九七四年)における悪役・スワン(ポール・ウィリアムス怪演)は、悪魔に魂を売り渡し、天才と永遠の若さを得る代わりに、自分の行動の全てを記憶しておくことを義務づけられた人物である。その屋敷の中に膨大なライブラリーとして残されたビデオテープに、映像として残されたその記憶こそ彼の"本体"であり、ナイフで心臓を刺しても死なぬ彼の肉体が滅びるのは、屋敷に火が放たれ、ビデオテープが焼け落ちたそのときなのである。

 これは芸術が持ちうる永遠の生命のアナロジーだろう。この映画はロックミュージシャンの話だが、ロックミュージシャンに限らずおよそすべての創作家は、自分の生み出した作品が自分の肉体の寿命を超え、人々の心の内に記録されて永遠の生命を持つことを望む。"記録"とは、時と共に流れ去りゆく事象(自分自身をも含む)を、紙、もしくはフィルム、テープ等々の上にとどめおくことで、永遠の生命をその事象に与えることなのである。

 世に"記録魔"と呼ばれる人々がいる。たいていは強迫神経症の一種で、目に入る文字や情景、自分および他人の動作行動、衣服や身長、年格好、もちろん時刻や天候、風向きの変化などを全て記録に残しておかないと気がすまない。画板のようなものを首からかけ、記録用紙に、

「何月何日何時何分○○商店に入店、店主の挨拶を受ける。店の奥より三つ目の商品陳列棚右端よりブルドックソース中瓶一瓶手に取るもまた元へ戻す」

 などと逐一書き込んでいる人を見たことがある。買わずに棚に戻したのなら別に記録しておかなくてもいいではないかと思うところだが、しかし彼ら記録魔たちにとっては、それは書き留めて永久に残しておかなければならない性質のもの、なのだ。

 なんとも厄介で不便な病気だ、と思うところだが、しかし、その反面、彼らの家にどっさりと保管されているであろうそのメモを、一度読んでみたいものだという気持ちには誰もがなるのであるまいか。詳細な記録というものに、それが何の記録であるにせよ、人はあらがいがたい魅力を抱くものなのだ。それは、放っておけば雲散霧消していってしまう"いま、この時"を記録にとどめたいという、ある種人間の"本能"に属する感性のしからしめるところだろう。

 江戸時代末期の風俗万象を記録した喜多川守貞の『守貞謾稿』という書物がある(岩波文庫にて『近世風俗志~守貞謾稿~』として全五巻にて翻刻)。三十年の歳月をかけて、衣服食物音曲生業、およそ当時の世の中にある全てのものを記録解説した書物で、江戸時代研究において欠かせぬ一級資料であるが、ただ書物のことを淡々と記した記載が続く全三十五巻の大著中に一ヶ所のみ、以下のような一文が唐突に挟まってくる。

 「此書(『守貞謾稿』のこと)、無益ニ近ク、特ニ専ラ、今世風俗間ノコトヲ記セバ、見ル人珍トセズ。余ハ、唯今世ノ小事書ニ伝ラザルノ雑事ヲ後世ニ於伝ノミ」

 思想もなく主張もなく、ただ世の中の小事を記録した本、などというものは、同時代人にとっては価値もないもの、とうち捨てられがちである(見ル人珍トセズ)。しかし、そのひたすら雑事を記録したのみの書物こそが、後世の人間にとっては何ものにも代えがたい価値を持ったものとなる。それを信じ、そのことのみを喜びとして、人は太古の昔から、見聞雑感全てを文字(文字以前は絵)にして岩に刻み、紙に記し、テープに残してきたのである。

 ……さて、世の中にはその記録を文字にも絵にも記さずに、全て頭の中に膨大かつ精細な記録として残しておくことの出来る能力を持つ人間がいる。本書『神聖喜劇』の主人公、東堂太郎もその一人である。とはいえ、この作品はフィクションであり、読者は現実にこのような超人的な能力を持った人間がいるものだろうか、と首をかしげるかもしれないが実際に、"完璧な記憶力"を持つ人間というのは存在するようだ。アレクサンドル・ロマノビッチ・ルリヤ著『偉大な記憶力の物語』(天野清訳・文一総合出版 一九八三年)によれば、一九二〇年頃にロシアにいたシィーという名の新聞記者は、黒板に書いたり、また人が口に出すのを聞いたりした数字や言葉の配列を、一度見たり聞いたりしただけで全て記憶することが出来、合図とともにそれを完璧に再現して復唱することが出来た。そればかりか、その配列を反対方向からも、また対角線の順番にでも言うことが出来たという。それらの記憶は一度覚えたら絶対に消えることはなく、十数年経った後でも再現することが可能だったという。

 あまりにその記憶力が完璧なため、シィーは現実と記憶の区別がつかなかったという。汽車に乗ったときのことを思い出すと、その情景から車内の様子、壁の模様から座った椅子の感覚まで自分の脳内で再現できるので、実際にいま、汽車に乗っているかのような気持ちになってしまい、人が部屋に入ってきて声をかけて初めて、それが記憶だったということに気がついたという。詳細な記録が、現実のコピーであることの、これはあきらかな証拠だろう。

 もちろん、東堂太郎はこの『神聖喜劇』の中で、そのような病者として描かれているわけではない。あくまでも一般人の能力の範囲で、和漢洋の文学作品、思想書、哲学書、雑誌などの記事や広告の片言隻句、映画のポスターの惹句、さらに膨大な『軍隊内務書』『砲兵操典』『陸軍内式令』などの軍隊書類まで、およそ文字で書かれた全てのものを網羅していると言っていい記憶力が発揮され、引用という形で記される。さきほど『守貞謾稿』のことを引いたが、同じ江戸時代の近世随筆である『嬉遊笑覧』(喜多村信節)『燕石雑志』(滝沢馬琴)『譚海』(津村正恭)なども当然の如くながら引用されていて、"記録"されたものがさらにこの小説の文脈の中で"記録"されていく、という記録の曼荼羅現象をも呈している。

 これらの引用の羅列は、軍隊という不条理な巨大組織の迷宮の中を主人公がさまよう際の羅針盤の働きを示していて、東堂二等兵はその膨大な記憶をたぐり、その引用をかざすことで、理不尽な上官や教師たちの暴力に対し抵抗を示す。

「記憶力を武器とする」

 という、この奇想天外なアイデアに、初めてこの作品を読んだ(一九八二年、仙台における学生生活中のことで、テキストは当時刊行されたばかりの文春文庫版初版であった)私は驚愕し、いちいちその引用された書籍の原本を図書館や古書館や古書店で探して回ることを決意し、もちろんその野望は途中で挫折したものの、所持していた本はチェックのための付箋紙でびっしりになったものだ。

 本書の原作『神聖喜劇』を評価する人たちはたいてい、東堂という人間を論理性と厳格主義の人格化としてとらえ、軍隊(戦争)という巨大な非・論理的存在への論理の立場からの挑戦、というテーマで読み解こうとするようだ。しかし、私が大学時代にこの原作小説を初めて目にしたときの、最大のインパクトは、完璧な記憶力を持つ、この主人公の怪物性であった。ひとつの事象をきっかけに、次から次へととめどなく記憶の倉庫から引用を繰り返し、その引用が引用を呼んでその描写が十数ページに及ぶまで続く、という作品の結構は、時に自分が"小説を読んでいる"という事実を忘れさせ、先行きの見えぬ知の深い森の中でさまよっているかのような、途方に暮れる混乱にこちらを陥れる。そのような、怪物的主人公であるからこそ、軍隊という怪物に、一人で対峙できるのではないかと思うのである。

 決して主人公は、軍隊への批判から記憶力を活用させているのではない。また、この原作者も、反権力、反軍隊という思想のためにのみ、主人公にその記憶力を使用させてはいない。とにかく、この世の森羅万象を、記憶と引用の羅列によってのみ表現するしかない(あたかもスワンやシィーの如く、現実を記録~記憶~が凌駕して起き換わってしまっている)デフォルメされた思考の持ち主として、主人公・東堂を置いているのだ。東堂太郎自身、その過剰な知識と論理性のために、ある種、自分の対立する相手である軍隊と同じくらいの不合理性を有した非・人間的存在となってしまっているのである。

 そのあきらかな表れが、「第三部 運命の章 十一月の夜の媾曳」における、東堂と恋人との、奇妙な交情のシーンであろう。軍隊に入り、もう明日は死ぬことを決せられた身となる男と、彼を見送る女性との、最後となるかもしれぬ性の営みと、彼女が最後の思い出と提案した、互いの陰部の"剃毛"という奇妙かつ印象的な行為の際にまで、彼・東堂は、その思考の中に、過剰な記憶力を入りこませ、「十八世紀以前ヨーロッパ(主として貴族階級)の婦人間」に行われた剃毛の習慣に関する知識や、『犬筑波集』におけるバレ句、雑誌『新青年』の艶笑記事、毛生え薬の広告文などをちりばめ、かと思うと『易経』や『論語』、さらには会津八一の「からふろの湯げたちまよふゆかのうへにうみにあきたるあかきくちびる」までを引用し、妖しくも濃厚な色香のただようべきこの場面、すなわち今生の別れを前に、生の象徴たる性器をむきだしの形でお互いの目の前にさらすという行為を、やけに理屈の勝った、躍動感のない場面として完結させるのである。先に挙げた記憶病患者のシィーは、抽象思考が苦手だったそうだ。例えば人の顔を抽象的なものとして確認する前に、その人間の時々刻々変化する表情全てを記憶してしまうので、それらの本質をつかんで確認するということが困難だったのだ。このとと、東堂の、女性との濃密な触れ合いを、全て他の記憶からの引用でしか埋められない行為には類似性がありはしないか。

 むしろ、軍隊という"不条理な世界"との対峙によって、その異常性が暴かれていくのは主人公・東堂の方なのではないだろうか。異常なまでの潔癖な克己性と論理性の権化、つまりは机上の世界のスーパーマンである彼が、戦争という"非合理の極北"の中に放り込まれることで、次第に堕落していき、そして人間性というものの根源にある非合理に対し、心を開いていくという、"逆ビルドゥングス・ロマン"とでも言うべき作品が、この『神聖喜劇』なのではないか、と思う。そして、その堕落には、読んでいてどこかで心の安らぐ性質がある。

 駅ビル地下の喫茶店で、時間が経つのも忘れ、小説を、いや"書かれ(記録され)た文字を読む"ことの快感を味わったあの青春時代から、すでに四半世紀近くの時が経つ。原作も破格なら、それを漫画化するというアイデアも破格なものがあると思う。そして、その漫画化が、余計なテクニックを用いず、ある種愚直なまでに正攻法で、ダイレクトに原作と向き合っている姿勢に、また、四半世紀前の若かった自分と同じ情熱を感じ、時を忘れて読みふけってしまった。もちろん、その細密なペンによる軍隊の服装・兵器等の描写はそのまま"引用"の意味合いをもって、原作の精神に忠実だが、そればかりではない。主人公・東堂のキャラクター描写の、一見無個性な中に、きちんと狂気を描いてくれているところがまた好感度大、なのである。

 

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