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2008.08.01

第十四回

「恋とホルモンとアイデンティティ」の巻

堀越 英美

「恋とホルモンとアイデンティティ」の巻

 一部に五反田ムーブメントを巻き起こした二岡・モナの不倫騒動。才女なのに股がゆるいなんてどんだけ萌えキャラなんだ……という下品な感慨はさておき、「二岡は昨年6月に第1子の長男が生まれたばかり」という報道の一文が気にかかった。子どもが1歳1ヶ月。それは夫婦の危機が訪れてもおかしくない時期。

 ほ乳類は基本的に、授乳中は妊娠することができないようになっている。子どもが乳を必要としなくなるほど大きくなり、次の子の哺育に専念できるようになってから排卵が始まるのだ。そのため、生殖活動をしないように授乳中は性欲を抑制するホルモン「プロラクチン」が分泌される。人間だって例外ではないのだった。

 つまり、授乳中のママさんには概ね性欲がない。そしてこのことはあまり広く知られていないように思える。出産後、少なくない夫婦が険悪になる原因はここにあるのではなかろうか。恋愛感情は性欲に基づくものだからして、性欲がなくなったら恋愛感情も自然と薄まろう。長いつきあいを経て結婚した場合はともかくも、大恋愛ムードのまま出産に突入した夫婦は要注意かもしれない。単にホルモンの作用に過ぎないのに、「もうこの人の顔を見てもときめかない、ってことは愛が冷めたのね」と短絡して夫につれなくなるママさん多し。再三性交渉を断られた夫が、妻の愛情のなさと解釈してみじめな気持ちになることもあるだろう。それでも、と夫が無理強いしたりなんかすると「私は疲れてて痛いのに、こいつばっか気持ちよくなりやがってコノヤロ」と妻が嫌悪感をこじらせて、そのまま永年セックスレス令が発動する恐れも。

 ネットの掲示板などでこの手の悩みを見かけるたびに、「新しい保健体育の教科書を作る会」を発足したい気分にかられる。授乳期の母に性欲なし!と太字で堂々アピールしたい所存だ。すべての夫婦の平和のためにも。あ、もちろん産後すぐにおさかんな夫婦も多いとは思いますが。

 本来ヒトの分娩間隔は4年。子どもが3歳になるまでおっぱいを飲ませて、3歳になってから性行再開というのが原始人の夫婦生活だったらしい。たいていの女性は10~15年の間に2~3人くらいの子どもを産んで一生を終えていたから、人類400万年の歴史のほとんどの期間、人口が爆発せずにすんだのである。現代において年子や2歳間隔の兄弟が珍しくないのは、ミルク育児や1歳での断乳が浸透したおかげかもしれない。

 ところで最近は1歳で無理に断乳する必要はなく、子どもに好きなだけ吸わせて本人の乳離れを待つ「卒乳」という考えが広まりつつある。WHOやユニセフも母乳育児を最低でも2年間続けるように推奨しているから、これは世界的な傾向のようだ。「断乳」といえば、おっぱいにオバケの絵を描いたり、乳首に辛子を塗ったりして乳児におっぱいトラウマを与えて引き離す手段がよく知られている。子どもはおっぱいを求めて3日3晩泣きわめくという。全体的に心理的ハードルが高そうな作業だ。そんな面倒な思いをしてまで断乳するくらいなら、「卒乳」でいいかー、というママさんも少なくない。つまり、原始人同様性欲レスママさんが増える傾向にあるということだ。劇辛オバケ乳は、やっぱりやだもんねえ。

 何の話だっけ。そうだ二岡だ。きっと二岡も子どもが生まれて1年間は我慢したと思う。「カミさんがやらせてくんないんすよー」とぼやく二岡に、球界のおっさんたちが「うちも1年間はやらせてくれんかったわ。子ども産んだばかりの女は野生動物だから仕方あんめえ」と経験則でなだめたりして。ところが1年待っても奥さんが授乳中だった日には、夜のバットも我慢の限界だったに違いない。そこへまさかの好球がド真ん中に飛び込んできて……。フルスイングして二岡からモナ岡にジョブチェンジしたくなる気持ち、わからないでもない。全部妄想でありますが。

 しかし性欲がなくなるということは、すごいことですよ。と、今まさに子の1歳の誕生日を前に「断乳」するか「卒乳」にするか迷い中の私は思う。コンビニで写真週刊誌を立ち読みするのが大好きだった私が、グラビアアイドルを見ても何にも思わなくなるなんて。自分が自分でないみたい。ちょっとしたアイデンティティクライシス。

 そういえば文化系の人間は「何を好きか」「何を嫌うか」でアイデンティティを形成する傾向にあるように思う。mixiのプロフィール欄に好きなものを陳列することをもって自己紹介とする人も多かろう。でも好きなものなんて、ちょっとしたホルモンの働きですぐに変わってしまうのだ。私って何、という話である。

 最初にこの手のクライシスに直面したのは、つわりの時だった。話には聞いていたものの、今まで好きだった食べ物を見ただけで気持ち悪くなるという体験は、けっこうな衝撃だった。自然食志向だったのに、つわりになったとたんジャンクフードしか受け付けなくなるという人もいる。自然食の人の場合、思想を食生活によって体現しているわけだから、ジャンクフードしか食べられないとなると、思想信条の危機とすらいえるのではなかろうか。

 次に感じたのは、実家に里帰りして弟たちが残した不要品が積み上がって足の踏み場もない子ども部屋を見たとき。「この部屋をなんとかしないうちは産めない……!」。掃除嫌いの私が、母も片付けをあきらめたほどの大量の荷物を仕分けしゴミを捨て売れるものは売り、数日かけてなんとか正常な部屋に戻した。誰にも頼まれてないのに、そこに片付けるものがあるかぎりやらずにはおられないのだった。これはいわゆる巣作り本能というやつらしい。子どもを産み育てるスペースを確保するための本能なのだろう。

 さらに臨月に入ってからの誕生日。「ほしいものない?」と夫に聞かれ、「……あれ? 何にも思いつかない」。まさかの物欲ゼロ状態。自分のものより、育児用品にしか頭が回らない。そこで夫は、ペンギン好きの私のためにペンギングッズを紙袋に山と詰めて持ってきた。ペンギンブックスのマグカップ、ペンギンの手ぬぐい、ペンギンの色えんぴつセット……。以前ならば「ひゃっほう!」と飛び上がって喜んだはずの激レアペンギングッズの数々を見ても、私の心に浮かんだのは「これは子どもが何歳になったらあげられるかな?」のみ。物欲はおろか、ペンギン愛までもがいつの間にか消えていた。汝、わずかな母性本能をペンギンに無駄撃ちするなかれ、というホルモンからのメッセージなのだろうか。

 ホルモンバランスの不調からくるマタニティブルーや産後鬱とは無縁でいられたのは幸いだったが、ホルモンにここまで精神が影響されるとは予想外だった。ホルモンのさじ加減でころころ変わる発情行為や趣味志向に、なるべく長続きさせたほうが無難な夫婦愛を託したりアイデンティティをかけたりするのは、実に危険なことだと言わねばなるまい。人間は遺伝子の乗り物だという表現はよく見かけるが、より短期的にはホルモンの乗り物なのかもしれない、と思う。おそらくは二岡だって、山本モナだって。 

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