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2004.04.01

吉本隆明さんの住む街

上原 隆

吉本隆明さんの住む街

 3年前に引っ越した。知り合いのYさん(女性)が結婚するので誰かに自分のマンションを売りたいと思っているという話を彼女の友人のSさん(女性)が私に知らせてくれた。一度見に行って気に入ったので売ってもらうことにした。
 Yさんはこの地域が大好きだという。
「ほんとうは出ていきたくないのよ」Yさんは悲しそうな顔をする。「春は上野の桜、5月は根津神社のツツジ、夏は円朝まつりに芋甚のアイスクリーム、秋は菊まつりに羽二重団子、へび道に蛍坂に夕焼けだんだん……」と、この街への愛着を語り続ける。
 私は自分の住む場所にそれほどこだわりがない。本屋と喫茶店があればどの街でもまあまあなのだ。だからYさんがいうこの街の良さがさほどわからなかった。
彼女は最後にこういった。「谷中銀座に行くと、時々、吉本隆明が歩いてるわよ」

 その後も会うと、「朝倉彫塑館に行った?」とか「桃林堂のお菓子は買った?」とかきかれるのだが、私は「まだなんです」と小さな声で答えるばかりだった。
 この街でひとりで暮らして来たYさんには特別な思いがあるのかもしれない。

 去年の7月、Sさんから「Yさんからもらった本だけれど読みますか」と一冊の本が送られてきた。
 吉本隆明著『日々を味わう贅沢』(青春出版社)だ。

 吉本さんは私のところからはひとつ谷を挟んで向かいの丘の上に住んでいる。本駒込だ。彼は上野や谷中あたりが好きらしく、丘から下りてきては散歩をしている。そのことが書いてある。谷中墓地のカタツムリを捕って自分の家の庭に放したらしいし、上野公園にある精養軒のビア・ガーデンで毎年ビールを飲んでいるらしい。
 Yさんはきっと自分の住んだ街と時間を懐かしく思って読んでいたのに違いない。

 本の中の「自転車哀歓」という文章によると、79歳の吉本さんは自転車に乗って散策しているらしい。ところが最近、足腰と視力が弱って、自転車に乗っていてバタンと倒れてしまうことがある。倒れたまま自転車から足が抜けなくなる。すると近所の女子高生や中学生の男の子が「おじさん、大丈夫?」と寄ってきて、自転車と体を起こしてくれる。「すいません」とか「ありがとう」とか彼は答える。
 そしてこう書いている。
「それと同時に『凶悪な少年犯罪』とか女子高生の『援助交際』とかの話題について意見を述べたりすることがあるじぶんを自戒する気持ちがやってくるのが、いつものことだ」

 自己反省に結びつくところが吉本さんらしい。

 また「ホームレスに想う平和の像」という文章では、上野公園を歩き、いまのブルーシートの小屋から敗戦直後の掘立小屋を思い出している。敗戦直後は血眼になって食糧をあさっていたが、いまはどこかノンビリしていて、この方が気楽だからホームレスになったといった感じを受ける。こういうと、ブルーシートは街の美観をそこなうとか、ゴロゴロしてないで正業につけという人もいるだろう。
「ごもっとも次第だが、わたしのなかには、寛容に、できるだけ長くそっとしてやってもらいたいものだというひそかな願望が兆したりする。その願望は、じぶんのなかにある、この社会への心身の不適応性からでてくる本音を交えているのだとおもう」

 あくまで自分の実感から出てくる考え、私は吉本さんのこういうところが好きだ。

「芋ようかんと殺気」は、吉本さんが上野松坂屋の地下で芋ようかんを買って、不忍池のベンチで食べていると、酔っぱらいのホームレスにからまれるという話で、ホームレスの失うものは何もないぞという殺気が、少しうらやましかったという。
 この感じ方が吉本さんらしいのだけれど、私は吉本さんがベンチで芋ようかんをほおばっている姿を想像して、可笑しくなった。

「ある夏の食事日記(抄)」によると、吉本さんは毎日昼はうどんを食べている。百貨店で乾麺を買ってきて茹でているらしい。うまいうどんベストスリーは、秋田の「稲庭うどん(並製)」、宮城白石の「温麺」、関東の「手振りうどん」だという。
「関東の『手振りうどん』は美味しさということに大衆性の要素を加えると、いまいちばん美味しい気がする。『京うどん』や『さぬきうどん』は老舗の油断というところかもね」

「かもね」のお茶目さにはまいった。

 自転車でころぶ話や芋ようかんやうどんや、吉本さんのエッセイには気取りがまったくない。
 不景気で会社の存続をかけての仕事で毎日ヒーヒーいっていた時期に読んだので、私は水面から顔を出してホッと息をついた魚のような気分になった。

 8月の終わり頃にSさんから電話があった。
「本読んだ?」という。
「うん。いい本だね」
「でしょう。で、あの本の中にあった精養軒にビールを飲みに行こうっていうお誘いなんですけど、Yさんもいっしょに」
「いいですね」
 会社が終わるころに上野駅で待ち合わせをした。
Sさんが来るまでの間、Yさんから「円朝まつりに行きましたか?」ときかれた。「いいえ」と私は答えた。「あそこに住んでて、円朝まつりに行かないのはもったいないわよ」と彼女はいった。
 Sさんが着くと、私たちはビア・ガーデンに向かって走った。というのも、本には夕暮れ時が良いと書いてあったし、太陽はいまにも沈もうとしていたからだ。
 息せき切って、精養軒の屋上にたどり着くと、太陽は雲に入り、そのまま沈んでいこうとしていた。
 ビア・ガーデンから眺める不忍池は想像していたよりもずっと良かった。広々としていて、水鳥がシルエットになり、蓮の葉が風で揺れ、その向こうにビル群が見える。すべてが水色から藍色にゆっくりと変わっていった。
 私がビールを飲みながら、ボーッと景色を眺めている間、SさんとYさんは最近の体の調子のことを話している。私たち3人は30年前後働き続けてきて、みんな少し疲れている。
 私は立ち上がり、屋上の端まで行き、手すりにもたれた。水面を渡って吹いてくる風が顔をなでる。
 振り返って、ビア・ガーデンの方を見る。プラスチックの椅子とテーブル、テーブルの上にはアルミの灰皿、日に焼けたパラソル、客は少ない。Sさんは話し続け、Yさんはうなずきながら枝豆を食べている。二人ともリラックスしている。
〈なんだか、いいな〉と思った。
 それは、吉本さんの本を読んだ時にも感じたことで、なんといったらいいだろう。
 言葉にすると、「気取らないやすらぎ」といったものが、そこにはあった。
 たぶんこの街の良さって、そういうことなんだろうな。

 私が席に戻ると、
「これから毎年8月になったらここでビールを呑むことにしましょうって話してたの」とSさんがいった。
「いいですね」
 私はビールのお代わりを注文しながら、こう思っていた。
〈来年は円朝まつりに行ってみなきゃ〉

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