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2004.02.01

落ち込む

上原 隆

落ち込む

 〈あっ、またきた〉と思った。
 このひと月あまり、北山さなえ(33歳)を襲ってくるものがある。それは突然にやってくる。ひと仕事終わってパソコンの前に座っている時、台所で洗い物をしている時、友だちと電話でおしゃべりをして電話を切った時。それは暗くて重くて、どうしようもないものなのだ。それが来ると胸のあたりが圧迫され、動悸が激しくなり、涙が出てくる。〈もうダメだ〉と思う。
 たったいまも、7歳の娘と5歳の息子を寝かせてホッとしたとたんに襲ってきた。
〈あーっ、苦しい!〉

 三年前にマンションを買った。その直後に夫が転職をした。商社の営業をしていた夫が実力を試したいといって外資系の保険会社に営業として入った。そこは完全な歩合制で、保険加入者を増やせば増やすだけ収入も上がるのだが、加入者を獲得できなければ収入は激減する仕組みになっていた。夫にいわれて、北山さなえは自分の親戚や友だちを保険に誘った。しかし限度があった。夫の成績は落ちていった。収入が減った。
 北山さなえは市役所のパートの仕事を得て働き始めた。

 一年後、夫は会社を辞めた。「働くのがこわい」「自信がない」という。軽いうつ症状になっていた。生活費だけでなくマンションのローンの支払いもあり、働いてもらわなければ困るのだが、追いつめると良くないと思い、何もいわずに見守っていた。
 二カ月後、夫の知り合いから電話があり、「うちで働かないか」と声がかかった。食品の営業だ。給料は安いが仕事はそれほどきつくはない。夫は再び働きに出るようになった。北山さなえは夫に仕事があることの幸せを実感していた。
 ある日、銀行から送られてきた明細書を見ると、10万、20万と引き出され、預金残高が100万円近くマイナスになっていた。彼女はびっくりした。
 帰宅した夫に明細書を見せると、しぶしぶ自分が引き出したことを認めた。「何に使ったの?」ときくと、「経費で」という。「何の経費よ」「いろいろ」「いろいろって何?」夫は黙ったまま答えない。数日間、無言の喧嘩状態がつづいた。
 日付を見ると、借金は外資系の会社に転職してから始まっていたことがわかる。名刺も交通費も接待費も自分持ちだったので夫のいうとおり経費だったのかもしれない。
「小遣いが足りなくなって、銀行から引き出す時は、ひとこと私にいってね」と彼女はいった。
「わかった」夫は答えた。

 夫とは学生時代に知り合い、卒業後に結婚して10年になる。彼女が彼を選んだ理由は、まじめな人だったからだ。遊ばないし、特別な贅沢もしたがらない。電気掃除機ひとつ買うのでも、いろいろ調べて、安くて性能の良いものを買うし、服装は同じものを何年も着ている。そういう人だ。その夫が簡単に借金をするなんて信じられなかった。結婚10年目で夫の別の面を初めて知った。

 それから三カ月後、食堂のテーブルの下に、銀行の利用控えの紙が落ちていた。見ると20万円引き出している。
 20万円も何に使ったのだろう? またしても私に黙って。
 女性だろうか?
 そういえば、布団の中で隠れてメールを打っていたことがある。
 賭け事だろうか?
 時々パチンコ屋に行ってるようなこともいっていた。
 そういえば……、もうひとつ思い当たることがある。夫が一度、異業種交流会に参加したいといっていたことだ。
 彼女はそのことを夫にたずねた。
「もし、あなたの推測が本当だったらどうなの?」夫はまるで子どものようにきく。
「どうして、いつも私を納得させてから事を起こさないの」「なぜ、隠れてするの」彼女は問いつめた。
「だって、あなたに言ったらぜったい反対されるから」夫は答えた。

 月々の生活費はマンションのローンも含めて40万必要なのだが、現在夫と自分の収入を合わせて、33万円にしかならない。毎月7万円ずつの赤字になっている。それに夫の作った借金の返済もある。
 北山さなえは家計を切りつめることにした。ワンボックスカーを下取りに出し軽乗用車に変えた。娘のピアノ教室をやめようとしたが、娘が泣くので仕方なく先生に事情を話し、レッスンの回数を減らし、月謝を安くしてもらった。携帯電話の料金システムを替え、生命保険を掛け捨てにし、新聞もやめた。食料品も賞味期限ぎりぎりの安くなった物を買うようにした。

 そんな努力をしている矢先に、今度は、クリーニングに出すの夫のスーツの中から消費者金融のカードが出てきた。銀行のカードを持たせないようにしたために、消費者金融に行ったのだ。
 北山さなえの頭に「離婚」という言葉が浮かんだ。どうしてこんなことになってしまったのだろう?

 彼女は夫が一生懸命に働く姿が好きだった。だから、家のことは家事も育児も自分ひとりでこなしてきた。夫に心配をかけまいとした。夫に頼ることもないし、感情をあらわにすることもなかった。そのことが、お互いに心を開いて話し合う態度を失わせていったのかもしれない。

 無言の喧嘩の日がつづいた。喧嘩をしていても家事はいつも通りにこなす。しかし、テレビを見ながらご飯を食べている夫の姿に、腹が立ってきた。
「あなたから何もいうことないの?」彼女は口を開いた。
「うん、ない」夫は口をもぐもぐ動かしている。
「謝りの言葉もないの?」
「あ、それはある。ごめんなさい」軽く頭を下げる。ご飯を食べながら、テレビの方を向いたまま。これじゃ、子どもを叱っている母親だ。
 その日の夜、子どもたちが寝てから、北山さなえは夫と向き合った。このままでは離婚しなければならないかもしれないこと、あなたが私に相談できないような関係をつくったのは自分にも責任があるということ、家計を切りつめる努力をしていること、すべてを話した。話していると、彼女の目から涙があふれ出し、止まらなくなった。全部話し終わると、夫は「ほんとうにごめんなさい」と謝った。
 翌日、夫から彼女の携帯電話にメールが入った。こう書いてあった。
「僕はあなたを愛しています。生涯あなたと一緒にいたいです。ぜったいに離れたくありません。もう一度僕と結婚してください」

 これで万事解決だ、と思った。
 ところが、この時から、北山さなえはうつ的な症状に襲われるようになった。突然、気持ちが暗くなり、動悸がはやくなり、〈あー、ダメだ〉という気持ちになる。朝は気分が良くても、それは昼間とか夜に突然襲ってくる。
 いまも、子どもたちが寝たと思ったら、暗い雲が胸を覆った。深い深い闇に落ちていく。食堂の床にしゃがむ。涙が次から次にあふれ出す。夫の帰宅は遅くなっている。携帯電話を友だちにかける。声が忙しそうだ。「ごめん、いま手が離せない」という。「ごめんね」と答えて切ろうとすると、「どうした。大丈夫?」という声がする。北山さなえはその声に答えず、電話を切る。ふらふらと立ち上がって、台所に行き、買っておいた精神安定剤を飲む。涙が流し台に落ちて、ポタポタと音を立てている。しばらくジッとしている。

「つらい時はその状況について具体的に書いてみるんです」
 以前に読んだ本にそんなことが書いてあった。
 北山さなえはティッシュペーパーで涙をぬぐうと、居間に行き、本棚の隅に立てかけてあるノートを取り出す。その横に昔の日記があった。手に取り、開いてみる。

「3月1日 戸田君、卒業式」

 高校2年の時の日記だ。

「ずっとずっと連絡がとれないまま、戸田君を忘れられなかった。そしたらムッちゃんが私の望みをかなえてあげたいといって、彼に連絡を取り、今日会えた。戸田君は、茨城大に行くのだという。そして『待ってるから』といった。一年後、ぜったい茨城大に行こう。そのためには猛勉強しないと、歯を食いしばって受験勉強をしよう」

「ああ」声がもれる。北山さなえが日記から目を上げると、そこには希望に満ちた17歳の自分が立っていた。口は動かさないが、「大丈夫よ」といっているのがハッキリと伝わってきた。

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