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2003.07.01

この道を泣きつつわれのゆきしこと

上原 隆

この道を泣きつつわれのゆきしこと

 「私が入会した時は、新日本文学会の会館って新宿にあったの。新宿にあったっていったって、いまの会員の方は、ああそうかってなもんですよね。当然だよ。人間、経験したことのないことというのはわかんないんだよ。あのー、だけど、新宿区役所の前の坂道を、ずーっとあがってって、まだ焼け跡の空き地だらけ、家がポツポツと建ってて、そこに伊勢丹の配送所があってね。横丁を曲がると左側にあるんだ。木造のさ、普通屋根はこうなんだけど、そこは逆になっててさ、ちょっと洒落てんの。入ったらね……、中の様子がパーって浮かんでくるわけよー」小沢信男の目が輝いている。ここは東中野の町内会館。土曜日の午前11時。古い折りたたみ机とパイプ椅子が並べられ、40人程度の人が座っている。そのほとんどが高齢者。鼻眼鏡やベレー帽や和服の男性、白髪のおかっぱ頭の女性。話をしている小沢の髪も真っ白だ。台風が接近していて、外は大雨、会館の屋根をたたく音が激しい。
「わかってほしいと思ってしゃべるんじゃない。だけれどもね、過去のことと向き合って、それを推察し、感じ取るということが文学の営みでしょう。たとえば、藤沢周平の江戸の作品だって、知ってもいないのに江戸の町が出てくるわけだよねー。文学の力というのはそういうものだ。藤沢周平のようにうまくしゃべれるってわけじゃないけど、えー、時代小説『新日本文学会』をしゃべります」

 戦後58年間続いてきた文学団体「新日本文学会」の解散をめぐる総会が開かれている。会は「新日本文学」という雑誌を出してきた。政治と文学についての論争の舞台となったし、文学史上、重要な評論家や小説家が執筆していた。中野重治、佐多稲子、花田清輝、長谷川四郎、野間宏、杉浦明平……といった人たちだ。この人たちが第1世代で、その多くがいまはもういない。小沢は第2世代に属し、論争よりも情感豊かな小説を得意としていた。ユーモアがありクスクス笑って読んでいて最後にグッとくるという作品が多い(彼の小説には根強いファンがいる、私もそのひとりだ)。第1世代からバトンを受けついだ小沢は新日本文学会を支えてきた。その小沢が解散を求めている。
 新日本文学会は、ひとつのジャンルに閉じこもらない芸術の総合化をめざしていた。かつては、映画監督がいたし、演劇人もいた。80年代、90年代と社会状況も含め、様々な要因が重なって新日本文学会は活力を失っていった。いまや入会してくるのは多くが定年後の高齢者たちで、雑誌は文学好きの同人誌のようになっている(ような気がする)。おそらく、いまの雑誌の水準が小沢をはじめとする古い会員には耐えられないのだろう。そこで、自分たちの手で会を終わらせたいと考えたのだ。総会で小沢は個人報告をしたいと申し出た。小沢には話しておきたいことがあったのだ。
「私が入った時は26歳です。いま75歳です。もうじき76になっちゃう。で、その時には事務局のみなさんもほとんど20代だったよね。そー、そうなんだな。うん。先輩は菊池章一さん大西巨人さんあたりが34、5よ。やっぱり老けて見えたけどね。編集長の花田清輝さんが44歳だった。編集長の顔なんてろくに見たことがなかったですけどね。花田さんっていう人は、会議のある時にだけ来たんです。忘年会とかなんとか、そういうところにはぜったい出ない人だったから、だから僕はお話しすることはなかった。40代がリードし、30代が補佐し、20代が働く会だった。そもそもがスタートした時に中野重治さんは44歳よ。佐多稲子さんが42歳ね。そういう40代の第一線の作家たちが作り出したのが新日本文学会。それと、いまの時代を較べることはできません。相手は人生50年なんだから。中野重治さんが戦後初めて書いた小説『五勺の酒』っていうのは老校長が友達に宛てる手紙で、老校長って書いてるよ、あれ読んだら49歳だよ。つまり、人生50年の時代だからね」

 小沢は東京の下町で生まれ下町で育ったチャキチャキの江戸っ子で、その語りは落語みたいだ。独特の間合いがあり、声が大きくなったり、つぶやくようになったり、怒ったり、笑ったり。
「日大芸術学部に在籍してて、江古田文学っていう雑誌に30枚の文章が載ったんですけど、それを見て、花田清輝さんがちょっといいねっていったのね。で、若い20代の編集部の人から連絡があって、新宿の会館に遊びに行ったのが運の尽きでこうなってるわけです。そういうふうに、いろんな同人誌で若い才能が輩出しているところに出向いて広げていこうっていう、それが新日本文学会だっていうのが私の第一体験ですよ。新日本文学会というのは目を外へ外へ向けていくっていう姿勢だよ」
 それがいまは自分の作品を載せることばかり考えて、目は内へ内へと向いている、と批判しているのだ。

「1970年代、事務局長になってから花田さんちに行くと、つくれつくれだからね。それが難しいのよ。正直いって。創作、『創』っていうのは、いまだかつてないものを新しくつくり出すこと、なんだよね。そんなこと、あんた、しょっちゅうやってられますか。難しくてしょうがないんですよー。私の書いたものに『わが忘れなば』というのがあります。代表作のひとつになってます。私のワン・オブ・ザ・ベストです。載せていただいたんだ。編集長が、このくらいのものが毎月出てくればいいのに、くやしそうな顔して、なんで、このくらいのものが毎月出てこないんだっていうわけだよね」小沢は編集長の顔になって眉根を寄せる。「そんなこといったって、私が26で入会して、37くらいになって、10何年たってやっと代表作にたどり着いたんだよ。誰だってそうだ。うーん、でも、それはね、無理じゃないんだ。10年かけ20年かけて自分の代表作にやっとたどりついたヤツが12人いれば、1年間埋まるわけですよ。そのくらいいたはずなんだよね。それが、なんかね、雑誌を横に並べてみたら、なんかスカスカして見えるんだよ。だけど、いまになって振り返る。振り返りますとね、これをタテにながめるとね」小沢は奥へずーっと並んでいる雑誌を見るしぐさをする。「出てるんじゃないですか、ぞくぞくと。1949年には佐多稲子の『私の東京地図』が新日本文学会出版部から出た。1950年には島尾敏雄の『ちっぽけなアヴァンチュール』や井上光晴の『書かれざる一章』が出て、それでもって大騒ぎになった。会が分裂しそうになった。私が入った時には金達寿の『玄海灘』というのが連載されていました」
 最近の「新日本文学」で金達寿について書いた会員の文章があった。その文章は『玄海灘』を芥川賞候補になったということで評価していた。小沢は怒る。芥川賞候補になったことなんかは、この作品の評価にとって重要でもなんでもない、新日本文学会の会員ならば、もっと大きな文学史の流れの中で評価すべきではないのか。雨音が激しくなり、小沢の声がききとりにくくなっている。きれぎれにきこえる声から推測すると、こんなようなことを話していたのだと思う。そして一段と大きな声になり、こういった。
「これは在日の文学を開拓した作品ですよ。これは、新日本文学会の自慢ですよ。われわれの誇りですよ」小沢は拳をつくると、自分の胸をたたく。

「60年代に入るとさ、大西巨人の『神聖喜劇』の連載が始まるわけです。あれ、10年かけてまだ終わらないって、連載中には困ったわけ、たった3ページだから、なに書いてんだかわかんないんだよね、だからね、少しまとめて出したらどうなんだっていう意見がありました。そりゃ当然だね。でも、その時にガンコな編集部は3ページの連載を続けたわけだよね。大西さんもガンコに急がないんだよ。フフフ。ともかく、すごい作品ができたわけですよ。新しい文学ができたわけよ。それから佐木隆三の『ジャンケンポン協定』。野呂重雄の『天国遊び』。小関智弘の『ファンキー・ジャズ デモ』。タテにしてみるとポコポコと出てきてるんだよ。ワン・オブ・ザ・ベストが」

 入口のところに遅れてきた人がいる。たたんでいる傘から水がしたたり落ちている。
 新日本文学会は創作以上に、財政難でいつも苦しんでいた。
「僕の後、事務局長を野呂重雄がやってね、野呂重雄なんていうのは血の小便を流して苦しんだんだよ。この借金をどうするかって。野呂重雄という男は前から知ってるけど、はじめて出会った気がしたね。つまり、あの『天国遊び』『黒木太郎の愛と冒険』あの大胆不敵な小説を書くヤツが、こんなこまやかな心の持ち主なんだね。そういう出会い、これは運動の財産だね。よくぞ、ここで出会いました。
 ところが、あれからこっち、どうもね。新日本文学会の会員が会の仕事をやると、労働の正当な対価ということで、1時間800円とか、5時間やったら5000円とか3500円とかしっかりとってお帰りになるそうだ。それはそれでいいですよー。労働の正当な対価っていうね。働いてそのお金とりゃ、それでおしまいじゃないですか。運動というものは間尺(ましゃく)にあわないものですよ。間尺にあわない運動をやるから獲得するものもあるわけじゃないですか」小沢の声が大きくなり、怒りが噴出する。
「ついこの間ね。文学学校が忘れられないっていう人に会った」新日本文学会は文学学校を運営している。小沢の声が小さくなる。「信用金庫の女の人。30何年前、菅原克巳組の生徒だった。昼間の仕事を終わらして夜来るわけよね。来るとガタガタの机の向こうに佐多稲子さんが座ってて、さしで話してくれるわけだよね。対等に話をしてくれる。それは、新日本文学会だからですよ」小沢は顔を上げて会員の方を見る。「新日本文学会は私の心の支えだったって……、そういうことだよね」小沢は下を向くとしばらく黙った。激しい雨音だけがきこえる。
 私は『わが忘れなば』に出てくる短歌を思い出している。

「この道を泣きつつわれのゆきしこと わが忘れなばたれか知るらむ」

 この日、総会は新日本文学会の解散を決議した。

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