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2002.11.01

夜間中学

上原 隆

夜間中学

 2つの実がついたサクランボが8個並んでいる絵があり、その下に「サクランボの実の数を、式を書いて答えなさい」という文章がある。
 机の上の問題用紙をジッと見ていた浦川義男(69歳)は、シャープペンシルの先でサクランボの実をひとつひとつかぞえはじめる。2度かぞえ、答えの欄に「16」と書き込む。
 教室を回っている山下先生(29歳)がそばに来て、浦川の机をのぞき込む。
「式を書いてくださいね」とやさしい声でいう。
 浦川は「うー」と小さなうなり声をあげて、考え込む。
 ここは東京都墨田区にある夜間中学校。夕方の5時20分から始まった授業は、社会、技術家庭、給食(メニューはピザトースト、野菜スープ、牛乳、ぶどう)、音楽と続き、いま、5時間目の数学の授業が始まったところだ。私は授業を見学している。
 全部で8クラスあり、そのうち4クラスが在日外国人でしめられていて、授業のほとんどが日本語教育にあてられている。他に登校拒否などで昼間の中学校へ行かなくなった若い人たちのクラスもあるし、私が参加している高齢者中心のクラスもある。生徒は6人で平均年齢72歳。高齢者の多くは、小・中学校の頃が戦争中だったり、家が貧しくて働かなければならなかったりして、中学校を卒業できなかった人たちだ。

 浦川はジッと問題用紙を見ている。
「サクランボの実はいくつずつついていますか?」先生が小さな声でいう。
「2個?」浦川が答える。
「じゃ、ここに2と書いてください」
 浦川は「2」と書く。
「サクランボの房はいくつありますか?」
「房?」
「これでひとつ」先生は一房を指でさす。
「8」
「じゃ、2つの実のついた房が8個ですね。だから、かける8と書いてください」
 浦川は「×8」と書きながら、
「に、はち、じゅうろくか」とつぶやく。

 休み時間、となりの席の浦川とおしゃべりをした。彼は仕事をやめたので学校に通えるようになったのだという。今は年金生活で月々15万円もらっている。しかし、それだけでは生活ができないので、パート仕事をみつけようと、昼間は職業安定所に通っている。
「なかなか適当なのがないみたいなんだよな」
 彼は濃紺のズボンの上に山吹色のポロシャツを着ている。上履きは白で足の甲のところにゴムが入っている昔からあるズック靴だ。
 27歳で家を出て以来ずっとひとり暮らしだという。
 結婚したいと思ったことはないのだろうか?
「あるよ。でも、こんなんじゃ逃げられちゃうよ。なんにもできないんだもん。手紙一本書けないんだもん」
 仕事は長距離トラックの運転手をしていたが、その仕事に就くまでに20以上の職場を転々としたのだという。
 履歴書はどうしたのだろう?
「ああ、履歴書は代書屋、代書屋に頼むんだよ。自分で書けないし、自分で書いたら、履歴書見ただけで不採用だよ。代書屋にもずいぶん払ったよなー」
 なぜ、中学校を卒業しなかったのだろう?
「勉強が嫌いだったから」といったきり、彼は黙った。これ以上は話したくないという態度だ。
 私は廊下に出て、他の教室をのぞきながら歩く。やたらに中国語がきこえてくる。渡り廊下に出る。来た時は明るかった空も今はもう真っ暗になっている。
 入学以来、浦川は一度も学校を休んだことはないといっていた。
 なぜそれほど熱心なのだろう?
 いまさら、高校受験もしないだろうし、卒業証書が必要なのでもないだろう。漢字も数学も記憶力や思考力が衰えていて、卒業しても実生活上で役に立つようになっているとは思えない。

 席に戻ると、浦川から話しかけてきた。
「け、計算ができないからね」彼がボソボソと吃音ぎみにいう。
「困るでしょう」
「お店で千円払うんだよ。そしたら、消費税が入ってるからって……」浦川は左の手のひらに右の人さし指で数字を書く仕種をする。「お釣りをもらうんだけど、375円だったか、368円だったか、い、いくらだったか。わかんなくて、店を出てから家に帰るまで考えてる」
「それじゃ、お金とかごまかされちゃいますね」
「だ、だいたい、ごまかされたか、ごまかされてないか、わかんないんだよ」

 浦川が次の問題に取り組んでいる。
「メガネには2枚のレンズがついています。ここにメガネが7つあります。レンズはぜんぶで何枚でしょう。式を書いて答えなさい」
 今回は文章だけで絵はついていない。
 浦川はノートを取り出すと、問題の文章を3分くらいかかって書き写す。次に、読みかえしながら、各単語の下に線を引く。その線を、一度、二度、三度となぞる。その度に文章の意味するところを考えているのだろうか。
 私は彼の表情をうかがう。ジッと問題を見つめ、考えに集中し、無意識に口を少しとがらせている。
 いったい、彼の頭の中でどのようなことが起こっているのだろう。ただ、フル回転させて考えていることだけは確かだ。
 頭髪が薄くなっている69歳の男が小学生の問題に必死に取り組んでいる。その姿をみていて、私の胸があつくなってきた。
 浦川が問題用紙をノートの横に置く。ゆっくりと、問題用紙に、「2」と書き、「×」と書く。
 私は〈そうそう〉と心の中でいう。
 少し考えてから、さらに「7」と書き、「=」と書き、答えの蘭に「14」と書いた。それから、顔を上げると私の方を見る。
 私は彼にVサインを出す。
 すると、浦川の顔にスローモーションのように笑みがひろがった。

 学ぶことは卒業や高校受験やさらに実用のためにあるのではなく、本来、学ぶことはそれ自体が楽しいものなのだ。自分の頭で考え、問題を解くことの楽しさは、アインシュタインでも小学生でも、夜間中学校の彼でも変わらない。
 漢字が読めなかったり、計算ができなかったり、彼の人生はおそらく苦難に満ちたものだっただろう。しかし、この瞬間、彼は学ぶことを楽しんでいた。

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