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リンカーンの医者の犬

2002.10.01 公開 ツイート

夢の行方 上原隆

 日曜日の午前11時、河村和美(30歳)は夫(37歳)といっしょに東京へ向かう電車に乗っている。群馬県前橋市に住む2人は、月に一度東京へ遊びに行く。渋谷や池袋に出て、服や靴を見たり、本屋やCD店をのぞいたり、映画を観たり、美術館に行ったりする。そのあと、食事をしてお酒を飲み、夜遅くに帰宅する。これが和美の目下の楽しみ。夫は市役所の職員をしていて、和美はパートで会計事務所に勤めている。
 電車の座席に座った和美は雑誌「ぴあ」を開く。今日は映画を観て、ベトナム料理を食べに行く予定だ。夫はスポーツ新聞を読んでいる。正面の車窓から陽が差し込み、2人の足元を暖めている。
 「ぴあ」をパラパラとめくっていて、和美は〈アッ〉と声を出しそうになった。知っている顔が一瞬目に飛び込んできたからだ。めくったページを一ページ一ページ戻っていく。ふたたびその顔写真を見つけたのは演劇のグラビアページだった。
「次にブレイクする脚本家はこの人!」と見出しがついている。ワイシャツの上に黒のクルーネックセーターを着て、髪を真ん中で分け、ふっくらとした丸顔に細い金属ぶちの眼鏡をかけている。
〈島田くん!〉と和美は思った。

 和美は島田誠と大学生の頃に数カ月つき合ったことがある。場所は京都。当時、和美は女子大の三年生で、誠は私立大学の四年生だった。和美が児童文学研究会というサークルの同人誌に書いた童話を誠が読み、芝居の中で使わせてほしいといって、訪ねてきたのがきっかけだった。その後2人は何度もデートを重ね、お互いのアパートを行き来するようになり、一泊二日の旅行にも行った。2人とも小説家に憧れていた。誠は坂口安吾が好きだったし、和美は山田詠美のようになりたいと思っていた。
 2人の関係は長く続かなかった。和美が誠を両親に紹介した時、彼は穴のあいたジーンズとTシャツ姿で現れ、自分の夢をとうとうと語った。両親は誠について評価を下した。「まだまだ子ども」「現実を知らない」「あんな男と結婚したら不幸になる」そんな母親の言葉をきかされているうちに、和美自身も誠を頼りない男だと思うようになり、心が離れていった。
 和美の方から連絡を絶った。しばらくして、誠から電話が来た。「どうしたの?」ときく。「別れて、少し考えたい」と和美は答えた。
 それっきりになった。

 和美はもう一度「ぴあ」を見た。顔写真の下に舞台写真が5枚並んでいる。誠が主宰する劇団「GUTAI」の歴史をたどることができる。1枚目の舞台写真には『赤い魚』という題名がついている。たしか、和美は彼の持ち歩いていたノートでこの題名を見たことがあるような気がする。
 記事を読むとこう書いてあった。
 京都で活動していた誠は最近注目され、東京での公演も増え、他の劇団のための戯曲を書いたり、TVドラマの脚本も書くようになったのだという。今後の活動についてきかれて彼はこう答えている。
「いろんな仕事に呼んでもらえるのはうれしいし、楽しいのですが、ボクのボクらしさを支えているのはGUTAIの活動なんです」
 そういえば、あの頃から、誠は劇団あっての芝居だといっていた。
 和美は彼の姿をありありと思い出した。
 話をする時によく頭の後ろで手を組んで天井を見上げていた。冬でも素足にサンダルで歩いていた。原稿を書いていて、行きづまるとうなじの後れ毛を指で触っていた。その頃もこの写真と同じ黒のセーターを着ていたような気がする。

 電車が渋谷駅に着き、和美と夫は映画館に行った。 『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』という映画を観た。性転換したミュージシャンの話で、映像の質感も色彩も音楽もけばけばしく激しいものだったが、観ている間中ずっと、和美には遠くで音が鳴っているような、ガラス一枚を隔てて見ているような感じがしていた。
〈あれから10年、誠は着々と自分の道を歩んでいる。それに比べて、私はどうだろう。大学を卒業して、銀行に入社した。仕事と遊びと恋愛で5年が過ぎ、結婚して退職し、夫との暮らしで後の五年が過ぎた。時々は何かを書こうと思って、パソコンの前に座ることもあるが、頭の中には何も浮かんでこない。30分も座っていられない〉そんなことを考えていた。
 映画館を出てから家具の店に入った。ソファやテーブル、照明器具や食器を見た。いつもだと、欲しいものがパッと目に飛び込んでくるのだが、今日はちっともほしいものが見あたらない。あれだけ楽しかった夫とのショッピングがすっかり色褪せたものに感じられる。
「おなか空いたの?」と夫がきく。
「ううん」和美は首を横に振った。
 夫は和美がボーっとしているのは空腹になったからだと思っている。
 家具の店を出て、通りの向かいに渡り、大きな書店に入った。
「1時間後、ここで会おう」夫がいった。本屋で別行動するのはいつものことだ。
「わかった。適当な時間に携帯に電話するね」
 2人はそれぞれ興味のある階へと向かった。和美はエスカレーターに乗って3階の文芸書のコーナーに行く。
 本棚の間を歩きながら、和美はひとりになれてホッとしている自分に気がついた。
〈このもやもやした気持ちはなんだろう?〉
 学生時代を思い出し感傷的になっているのかもしれない。少しして、いや違うと思った。この感情は、あの頃、自分にも夢があり、いろんな出来事に対する感性がヒリヒリしていた。そんな自分を失ったことへの淋しさなのだと思った。
 もし、誠とずっとつき合っていたらどうだっただろう?
 あれから10年。自分はスッカリ夢から覚めてしまっている。彼に比べて自分が現実的でつまらない存在に思えた。
 今日これから夫と食事することも、お酒を飲むこともすべてがむなしいく感じられる。
 いつの間にか、和美は演劇の本のコーナーの前に立っていた。彼女は演劇関係の雑誌をぬきとると、「島田誠」の名前を探している。
 誠に連絡を取ってみようかと思った。
「ぴあ、見たよ」といったらどうだろう?
 自分のことを覚えていてくれるだろうか?
 和美はなんだか、今すぐにでも、このまま京都に行ってしまいたいような気持ちになっている。
 突然、携帯電話が鳴る。バッグから電話を取り出す。
「はい」和美は小さな声でいう。夫の元気な声が聞こえてきた。
「ヴェトナムアリス、予約しといたから」
「わかった」
 そう答えると、和美は雑誌を本棚に戻した。

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上原隆

1949年横浜市生まれ、コラムニスト。著書に『友がみな我よりえらく見える日は』(幻冬舎アウトロー文庫)『喜びは悲しみのあとに』(幻冬舎)などがある。心にグッとくるエピソードを求めて、東へ西へ南へ北へと歩き続けて靴底を減らしている。お話を聞かせてくれる方は uehara@t.email.ne.jp までご連絡をください。

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