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2010.03.01

第四十八回

「母性と本能が出会った頃」の巻

堀越 英美

「母性と本能が出会った頃」の巻

 まもなくママさんワールドの住人になる友人が、こんな不安をこぼしていた。

「いまだに腹から人が出てくる実感とか、早く顔がみたいとか、愛しさとかがぜんぜん芽生えてこない」
「あんまり今から愛おしがってると、育児の大変さにこんなはずじゃなかったって思うから、今のところは愛おしくなくて正解だよ……」

 先輩ヅラしてこんなことを言ってみたけれど、私もまったく同じ不安を妊婦時代に抱えていた。しかし今だから言えることだが、見たことのない人への愛情なんて、白馬の王子様への憧れとどっこいどっこいだと思う。その手の思い込みと妄想は、生身の人間にぶつかったらあえなく壊れてしまうのが世の常。女性に幻想を持ちすぎてしまった男性が、現実の女性に幻滅して憎悪を抱くようになるのもよく聞く話だ。育児ノイローゼを防ぐという意味でも、生身の赤ちゃんと出会う前はあまり夢を見すぎないほうがいいように思うのだが、どうだろうか。

 とはいえ、「女は生まれる前の子供にも母性本能で愛情を持つものだ」という信仰は、案外根深い。『妊娠小説』(斎藤美奈子)でやり玉に挙げられていたように、女は母性本能ゆえに皆無条件で(たとえ結婚できなかろうが)子供を欲しがる不条理な生きものと長らく信じられてきた。さすがに少子化が騒がれる昨今、無邪気にそんなことを信じている人はいないだろうが、子供が嫌いな知人女性は肩身が狭い思いをしているようだ。

「母親には母性本能があるから子供のためなら喜んで自己犠牲を払うものだ(べきだ)」という思い込みはもっと根深い。確かに子供が産まれてから、自分のものより子供のものを買うようになり、自分の娯楽よりは子供の娯楽を優先させるようにはなったけれど、自己犠牲とはちょっと違う。どちらかというと、「子供を喜ばせるほうが自分を喜ばせるより安上がりでチョロイ」「子供は同じ本を何度でも読むから大人の本を買うより効率がいい」「子供が何で喜ぶかを考えるのが実験感覚で面白い」というような理由で、乏しい資源から全体幸福を求めた結果である。そして子供のためなら命も惜しくないかというと、それはとても怪しいのだった。しかし動物だって子供が天敵に狙われているときに「この子の代わりに私を食べて!」と体を張るお母さんは滅多にいないだろうから、私が特別本能に欠けているわけではないと思う。子供のために命を張れる親は、たぶん相当に立派なのだ。

 前回見たように、「母性」は当初、大正時代のインテリ女性の新しい生き方として輸入された翻訳語だったはず。いったいいつ、「母性」と「本能」が結合し、女なら本能的に母性を持つはずだということになったのだろう。『妊娠小説』に取りあげられた作品の中で最も古いのは、1890年(明治23年)の森鴎外『舞姫』である。妊娠してウキウキとオムツを縫っていたエリスは、主人公にだまされていたと知るや「私産むわ」などと言う間もなく発狂してしまう。出産そのものより、結婚で苦境から抜け出すことを期待していたかのように見受けられる。「母性本能で産みたがる女」は、もう少し時代をくだらないと出てこないのだろうか。

 青空文庫を検索してみたところ、「母性」と「本能」がセットで出て来るのは、なぜか1934~1936年(昭和9~11年)あたりに集中している。たとえば1935年初出の徳田秋声の短編「チビの魂」。冒頭から「彼女も亦(また)人並みに――或ひはそれ以上に本能的な母性愛をもつてゐた。」と始まっている。<彼女>とは、芸者仕事の影響で妊娠しづらい体になってしまった主人公の愛人の圭子。

子供といへば豕(ぶた)の仔でも好きな彼女であつたので、散歩の途中犬屋の店で犬の子が目につくと、何をおいても側へ寄つて、本当に可愛ゆくて為方(しかた)がないやうに見てゐるのだし、町の店屋などで綺麗な猫が見つかると、そこで余計な買ひものをしたりして、それは其の場きりのものだけれど、その子供を貰ふ予約をしたりするくらゐだつたから、母親に手を引かれて行く子供を看(み)ると、別にそれが綺麗な子でなくても、ぽちや/\肥つてさへゐれば、蓮見(はすみ)に何とか話しかけて振顧(ふりかへ)るのであつた。

 貧民窟に住む10歳の女の子・咲子を紹介された圭子は、スタイルや要領がまあまあよさそうなことから、「猫の仔(こ)か何かを貰ふやうに」養子とすることを決める。しかし一緒に暮らすうち、あちこちの家を転々としてきた咲子のかわいげのなさに嫌気がさしてきた圭子。「厄介ものを棄てに行くやうに」咲子を仲介の男のところに戻してしまうのだった。ここで言われる「本能的な母性愛」とは、ペットをかわいがる感覚と同レベルのよう。現代の母親に要求されるような自己犠牲的要素も、『成熟と喪失』(江藤淳)に書かれていたような無条件で他者を受け入れる要素も見受けられない。

 1934年に発表された倉田百三のエッセイ「女性の諸問題」では、「二 母性愛」なる章で「母性」と「本能」の結びつきが熱烈に語られている。

 母性の愛の発動する形は大体右の例のように、本能的感情と、養、教育の物質のための犠牲的労働と、精神的薫陶のためのきびしい訓誡と切なる願訴との三つになって現われるように思う。  動物的、本能的感情の稀薄な母性愛は骨ぬきの愛である。これが永遠に母親の愛の原動力である。これがなかったら、私たちは母親というものをこれほどなつかしく思うことはできないだろう。

 これは今の「母性本能」の解釈とかなり近いように見える。自分の母親がしてくれた「おしっこの世話、おしめの始末、夜泣きの世話、すべて直接に子どもの肉体的、生理的な方面に関係のあるケヤー」といった肉体的な奉仕を重視し、鳩山春子が大正時代に提唱していたような「精神上の薫陶」を二の次にしているあたり、「母性」を語る主体がインテリ女性からインテリ男性にバトンタッチする過程でその中身が変容したことが伺える。なんぼ鳩山春子が「奥さんにするならブサイクでも賢いほうがいいですよ。そのほうが賢い立派な子が育ちますよ」とプレゼンしたところで、母親に溺愛されて育った男性にしてみれば、やはり自分のママに近い女性が望ましいのだろうか。ただ、現代と少々異なるのが、

愛してはくれるが、働いてくれるには及ばなかった富裕な家の母と、自分の養、教育のために犠牲的に働いてくれた母とでは、子どもの感情は大変な相異であろう。労働と犠牲とは母性愛を神聖なものにする条件だ。

 と、専業主婦よりも働く母親のほうが一段上におかれている点。女性の労働が下層労働に限定され、労働による自己実現など望むべくもなかった時代には、働く母親=自己犠牲的と問題なく受け止められ、神聖視されていたようだ。いずれにしろ、子供の目線から母親の自己犠牲をありがたがるという点では現代の母性観と通ずるものがある。しかしなぜ、そんなにも自己犠牲が強調されるのだろうか。

 最後に母性の愛は公のために犠牲を要求されねばならぬ。
 祖国の安危のために、世界の平和のために、人道と文明のために、たちがたき恩愛をたって、自分の子を供えものにせねばならぬ。

 いきなり軍靴の足音が聞こえてまいりました。そういえば、1934~36年は日中戦争前夜。1932年に五・一五事件が発生して政党制が終焉し、一気に軍国主義へ突き進んでいった時期だ。1936年に書かれた岸田國士のエッセイ「日本に生れた以上は」にも、「殊に、愛国心といふ言葉は、今日に於いては、母性愛などといふ言葉と同じく、月並で、空元気で、卑俗な響きを伴ひ易く、従つて、無教養な権力階級並に、これに迎合せんとする大衆の便利な標語として役立ち得る語感に満ちてゐる。」とあり、当時「母性愛」が「愛国心」と似たようなプロパガンダ語とまなざされていたことがわかる。映画界でも、『護国の母』(1936年)のような従来の“母もの”と軍国主義が結びついた映画が作られ、母の犠牲が日本社会の大きな支柱として賛美されるようになったそうだ(鶴見和子・高野悦子・鈴木初美「日本母性愛映画の分析--「母もの」は何故泣くのか泣かせるのか」『映画評論』1951年5月号)。

 子供を黙って差し出す母親たちを量産するためには、母性がインテリ女性のためのものであっては困る。女性なら誰でも持っている美しいもの、でなければ一般女性を扇動するのは難しい。このあたりが「母性」と「本能」が結びつき、自己犠牲をともなう尊いものとして崇拝されるようになった起源なんじゃないか。

 一方、母性愛流行の影で泣く女性もいたようだ。プロレタリア作家の宮本百合子が1936年に発表した「『女の一生』と志賀暁子の場合」では、恋仲にあった映画監督に捨てられて妊娠八か月の胎児を堕ろした女優の志賀暁子が、私生児を育てあげた『女の一生』(山本有三)のヒロインのような尊い「母性」がないことを検事からなじられ、2年を求刑された事件が紹介されている。当時の日本は、戦争に向けて<産めよ殖やせよ>をスローガンに中絶への取り締まりを強化していた時期。有名人だった彼女が投獄され大々的に報道されたのは、「母性のない女はこういう目にあうのだ」という見せしめの意味もあったのだろう。いろいろとヒドイ話である。

 こうしてみると、徳田秋声の母性観の浮きっぷりが気になる。しかし彼は「チビの魂」発表時63歳。流行りの言葉に乗ってはみたものの、時流に疎いのはやむをえないのだった。「本能的な母性愛? ああ、女ってのは犬とか猫とかかわいがるの好きだよな~」程度の認識だったに違いない。もちろんそれは、生身の女性の実態に即した認識ではあったのだけど。 

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