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2010.08.01

第五十七回

「2歳児の笑いのツボを考える」の巻

堀越 英美

「2歳児の笑いのツボを考える」の巻

 空気のように当たり前に存在していたから、失ってしまってからもしばらくその不在に気づかない。そんな経験はないだろうか。

 子供が父親をスイッチひとつで使役する『ピタゴラスイッチ』の人気コーナー「おとうさんスイッチ」を最近見ないなあと思っていたら、いつの間にか母親が子供を使役する新コーナー「おてつだいロボ」が始まっていた。もしかしたら代替わりしたのだろうか。

「おとうさんスイッチ」が消えた理由はさておき、「おとうさんスイッチ」が「おかあさんスイッチ」であってはいけない理由はわかる。子供の命令でお母さんが動く。それは単なる日常である。日常でありすぎるために、それを映像化されたら、きっといたたまれない。

「彼んちに遊びに行ったら彼がお母さんに『ビール!』ってどなっててさー、それでお母さんもおとなしくビール取りに行ったりするの」「えーなにそれコワーイ」とは独身女性にありがちな会話。しかし気がつくと、私もまた子の「お茶!」という声でいそいそと冷蔵庫に走っているではないか。「ビール!」エピソードの母親と変わらない。そのことに気づいてやるせない気持ちになって以来、2語文を発せないころから「『お茶!』じゃなくて『お茶ください』でしょ」「く、くだちゃい!」と言い直させるようにしている。やっていることは子供の奴隷そのものなのだが。

「おとうさんスイッチ」は、本来育児作業を担わなくてもいい偉いお父さん、もしくはおじいさんという存在が、子供に使われているというところに「ああ、ユーモアだねえ」「ああ、ユーモアさ」と面白みを見出せる感性が前提となっている。しかし共働き世帯の増加や育児のプライオリティ上昇で、“子供の世話などという下等な労働は女がやればいい”という前提がいろいろな意味でゆらぎつつある現在。お父さんが子供の世話を日常的にしている育児の現場では、「おとうさんスイッチ」は「おかあさんスイッチ」同様、いたたまれないものとして受け止められるのかもしれない。

 新コーナー「おてつだいロボ」は逆に、「本来母親のいうことなどきかない子供が大人しく命令に従っている」というのがユーモア成分なのだろうか。もっともこれを正しくユーモアたらしめるには、その母親は優しそうなママさんでなくてはならないだろう。茶壷をチャッポーと投げる劉備玄徳の母みたいなおっかないオカンがでてきて、「し…四当五落の精神で中学受験に励め」「り…立身出世して老いた母親に孝行せよ」とスイッチを押したりしたら、これまたユーモアから遠く離れたせちがらい風景が広がってしまう。まったくもってユーモアは難しい。

 ユーモアの難しさといえば、年配の文化人がお笑い番組に苦言を呈しているコラムなどを最近よく見かけるのだが、いつも首をひねってしまう。彼らは決まって、昔のお笑い番組に比べて今のお笑い番組はくだらない、と嘆いてみせる。

 こちらは授乳タイムの手持ぶさたにテレビを見るようになってから、最近のお笑いのレベルの高さにびっくりし通しである。記憶によれば少し前まで、出世した芸人をのぞいて男芸人は痛い目にあわされて大騒ぎする要員、女芸人はブスをいじられる要員としてしかテレビに出られなかったはず。ダウンタウンで育った世代が番組作りの中核を担える年頃になったおかげだろうか。あるいは子供時分から貪欲に娯楽を追求できる恵まれた人々が主流化し、若者を中心に大衆全体の笑いへの感性が先鋭化しているのだろうか。若い頃、サブカル雑誌や深夜ラジオ、海外文学などを追わなければ出会えなかった笑いが普通にテレビで見られるなんて夢みたい。断乳後も野菜みじん切りタイムや洗濯モノたたみタイムを利用して、録りだめた『アメトーーク!』や『モヤモヤさまぁ~ず2』などを流し見している。テレビ見たさで無駄にゴボウのささがきをしたくなるほどにテレビッ子。この年になって。

 とりわけ『オジサンズ11』で鳥居みゆきが鈴木史郎から般若心経について話題をふられたときの、禅問答のようなやりとりは忘れられない。般若心経の「空」がわかるかと問われて「食事には興味がないんで」と答え、「空」とは「食う」であるという返しに感服する鈴木史朗にたたみかけるように「食う(空?)に足りないってことです」と満面の笑み。そしてボソっと言い放つ「初めてお父さんに会えた気がします」。会話の中でどこが関節なのかを即座に見極め、的確に関節をはずして意味不明にならないギリギリのところでずれた世界観を現出させるインプロビゼーションの世界。または言語によるフリージャズ、とかなんとかよく知らない言葉を並べたくなるくらい、高尚さを感じたということなんですけれども。鳥居みゆきの笑いを吉田戦車の4コマだとしたら、私が子供のころに流行していたジョーク「赤信号、みんなで渡れば怖くない」なんて、新聞の風刺4コマみたいなものじゃないですか? 東京ローカルで申し訳ないが、彼女が『東京ビタミン寄席』で見せた重信房子を赤ずきんちゃんに見立てた連合赤軍紙芝居も、政治風刺の笑いという枠組みを鉄球でぶちこわすナンセンスぶりがすさまじかった。

 こんなにもわかりやすくレベルアップしているのに、なぜ彼らは現代のお笑いを理解できないのだろうか。やはり笑いの受容には、世代的な限界がどうしてもあるのだろうか。そういえば吉田戦車が登場したころ、高名なマンガ評論家たちがこぞって誰某の焼き直しだの、マーケティングで売れただけだの、裸の王様だのとけなしていたことを思い出した。私もそのうち、若者の笑いが理解できずにトンチンカンにけなす中高年になるのだろうか。やだなあそんなの。

 そんなことを思うのも、我が2歳児の笑いのツボが謎すぎるからなのだった。子に鼻水を取ってくれと言われ、「(奥のほうにあるから)取っても取れないよ」と返したところ、「とっても!とれない!」と何度も繰り返しながらゲラゲラ笑いだした。そんなに面白いのか、と思ってしばらくしてから「取っても取れないよ」と言ってみたら「ヤメテ~」と再び笑いの渦へ。何、何なの。「アルファがベータをカッパらったらイプシロンした。なぜだろう」という未来世紀ギャグに笑い転げるドラえもんを見つめるのび太の気分。これがいわゆる笑いの世代間ギャップというやつなのか。

 ああ、大槻ケンヂの「おっぱいマン」を歌えばギャーギャー笑い転げてくれた頃の君がなつかしい。なんて言っていては、吉田戦車をけなしていた評論家たちと同レベルになってしまう。どこが面白いのかちゃんと分析しなくては。

 子供が「おっぱいマン」で笑うのはわかりやすい。おっぱい、それは授乳と断乳を経た幼児にとって、最も原初的な愛着の対象であり、かつては生へとつなぎ止める命綱だったものであり、初めて別離による成長を経験させた荘厳にして神聖な存在である。それが「テッテッテーテッテッテテーおっぱぁ~い」とマヌケな抑揚で歌われるのだ。この重たさとマヌケさのギャップ、笑わずにいられようか(幼児的には)。子供相手には鉄板の「うんち」ネタも同様。自由にもらし放題だった赤ちゃん時代を経て、排泄を自由にコントロールできるようになるまで、子供は排泄をめぐって挫折と成功の繰り返しを経験することになる。排泄の快感、未知なる「おまる」へいざなわれる不安、初めてウサギさんマークのパンツをはいた栄光、もらして親に怒られる屈辱、トレッピーによる抑圧感、成功して親に誉められることで得られる自己肯定感。まるでスポ根並みのドラマがうんちとおしっこの周りで展開しているのだった。これもまたマヌケに扱われることで、笑いをもたらすギャップが現出するのは想像にかたくない。

 じゃあ、「取っても取れない」は何が面白かったのか。「取る」と「取れない」という相反している言葉を同居させた母の凡ミスが面白かったのか。取ろうとしても取れない、その状況がまるでロシア絵本「おおきなかぶ」のようであり、鼻水が抜ける快楽一歩手前の状態で留め置かれるというロシア的抑圧を哄笑をもって吹き飛ばしたかったのか。それとも単なる……語感?

 わからない。今これを書いている最中に「取っても取れないよ」と言ってみたのだが、きょとんとされてしまった。今の彼女のマイブームは、『タモリ倶楽部』の「空耳アワー」コーナー。「そらみアーワー見せて!」と父親に再生をうながし、きっちりタモリさんが笑っているところに合わせて笑い、「おもしろいねえ…」としみじみしている。君のセンスは新世代なのか、それともただのオッサンなのか。その答えは風に吹かれている(オヤジギャグ)。  

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