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2010.09.01

第五十八回

「イヤイヤ期の終りに思うこと」の巻

堀越 英美

「イヤイヤ期の終りに思うこと」の巻

 8月にめでたく3歳の誕生日を迎えた我が娘。何もない道で自転車で転んで前歯を2本折るくらいウッカリな私が、よくも3歳まで子供を生かしてこれた。まずはそれを言祝ぎたい。娘もイヤイヤ期の2歳がついに終わってやれめでたい、と言いたいところだけど、そうはいかなかった。

 ご飯を作っている最中に押され、「危ないでしょ!」とちょっときつめに叱ったところ、「お父さんに電話するよ!」と娘。見ていると、受話器をとって「あのぉ、お母さんが●ちゃんのこと怒ったんですけどぉ、お父さんお母さんを連れてってください! よろしくお願いしまーす」とエア電話。手の込んだ反抗の手口に母は当惑を隠しきれない。そうかと思えば、どこで覚えたのか「お母さんのバカー!もう知らない!」と、親に男女交際を反対された少女マンガのヒロインみたいなセリフを延々繰り返してみたり、「お母さんが怒ると●ちゃん泣いちゃうんだよ……。だからお母さん怒らない方がいいよ?優しくして?ね?」と泣き落としにかかってみたり。知らなかった。イヤイヤ期が終わるということが、「イヤ」以外の反抗のバリエーションが増えるだけだったなんて。そして「保育園から帰ってきたら全裸になって好きなだけワンピースを重ね着」「家の鍵は必ず自分で開ける」などの謎のこだわりは増える一方。知らずに彼女のこだわりの邪魔をすると泣きわめくので、説得するのに一苦労だ。

 それにしても、他の3歳児もこんなに面倒臭い存在なのだろうか。いくらなんでも我が強すぎやしないか。もしかしたら“誉める育児”を真に受けて誉めすぎてしまったせいで、とんでもないモンスターを生みだしてしまったのでは……。三つ子の魂百までというし、ワンピースを3枚着て「お姫様になる!」とくるくる回るのと同じ感覚で、布団にくるまって「即身仏になる!」といつまでも戸籍に居座るエア老人になったりしないか。国家規模で面倒な事態になるからやめてほしい。

 巷では“エア老人”こと高齢者の所在不明問題、そして育児ネグレクトの話題が熱い。後者は特に、あってはならないことなのだろうけど、どちらも「そういうことも起こりうるだろうな」と感じさせる事件だった。なにしろ死後処理も育児も、あらゆる人に降りかかる可能性のあるタスクであるわりには、手間がかかりすぎる。

 おそらく私と仕事をしたあらゆる編集者さんに信じてもらえないだろうが、私は夏休みの宿題を、夏休みが始まる前に終わらせるタイプだった。日本の勤勉なお母さんたちの間にまじればぐうたら人間でも、世界がもし100人の村だったら、真面目TOP40にランクインする自信がある。世の中には夏休みが終わってから宿題を始める人、果ては夏休みの宿題をバックレたまま提出しない人も存在するのだ。バックレ常習犯に聞いてみたところ、夏休みが明けて10日くらい過ぎれば、先生からも何も言われなくなるらしい。その話を聞いたときの衝撃ったらない。無駄と知りつつ日本国憲法を書写したあの夏の日を返して。

 育児の面倒は今さら言うまでもないけれど、死後処理も銀行口座の解約から始まり、故人の人脈が広ければ広いほど、筆舌に尽くしがたい面倒が発生するらしい。私の知る限り、この手の作業を押しつけられるのはたいてい縁戚内の真面目な女性。その真面目な彼女たちをして悲鳴をあげさせるほどなのだ。これが夏休みの宿題をバックレる人ばかりだったらどうか。「あ、面倒な人が布団の中で死んでる……面倒だから戸を閉めたままにしとこう」と考える人が出てきても、ちっとも不思議じゃない。同様に、「育児面倒……戸を閉め切って逃げよう」という母親が出てくるのも、ありえることなのだった。お鍋の中に肉じゃがを入れっぱなしにしたまま長期の旅行に出てしまった人が、お鍋の中を見る怖さに鍋をガムテープでぐるぐる巻きにしてゴミ捨て場に捨ててしまうような、そういう感覚なんじゃないかと想像する。

 もちろん、そういう人を断罪するのは簡単だ。他の母親はがんばっているのに、なぜお前はがんばらないのだ、と。でも努力すればテストで80点以上取れるからって、日本全国の小学生全員が毎回80点以上を取るような世の中にするのは、まず不可能だ。「もし一度でも80点以下を取ったらいじめてやるぞ!」とプレッシャーを与えればいいのか。そもそも入学しない子供、途中退学する子供が増えるだけだろう。つまりそれが日本の少子化で、ネグレクト(または自殺)なんじゃないか。そして途中退学、つまりネグレクトや自殺をする母親を減らすためには、「“理想の母親”であらねば叩いてやるぞ!」という母親を取り巻く監視の目を緩和する必要があるように思う。育児放棄するような母親が存在しても、「育児面倒だから、誰かやってよ」と周囲に言える状況であれば、せめて子供の命くらいは助けられるのではないか。

 世間を見渡してみると、「子供とはコレコレこういう生きものだから母親はこうすべき。できない母親はバカ親!」と言わんばかりの言説が目立つ。まるであらゆる子供は一つの性質しか持たず、彼らの提唱する「正しい育児」さえ実行すれば全ての子供が親の言うことをよく聞くよい子になるかのよう。いつも戸惑うのが、彼らが主張がそれぞれバラバラであること、そして彼らの定義する「子供」と我が子が違いすぎることなのだった。やっぱり私の子供はモンスターなの? 少し悩んで同年代の子供と格闘中の方々のTwitterやブログなぞをのぞいてみると、ツッコミを多数見つけることができて一安心。あー、こんな賢くて性格よさそうな人々の子供もいろいろあって、みんな悩んでいるんだなあ。しかし育児がこれほど多くの知識と徳の高さを要求されるハードルの高い作業なら、とっくの昔に人類が滅んでいてもおかしくないはず。なぜ私たちは悩んでしまっているのだろうか。

 今年の夏は長野の田舎に数日間帰省したのだが、東京での育児とは、ストレスがまるで違うことに気がついた。子供と歩いているときも、草むらでカエルを見つけて立ち止まって眺めたり、母の手をふりきって走り回る子のあとをゆっくりついていったり。ああ、子供との散歩ってこんなにのんびりと楽しいものだったんだなあ。これが東京だったら、手を離しただけで、「私の自転車にぶつかったらどうするんだ!母親なんだからしっかりしろ!」という目で見られるし、歩道をゆっくり歩いているだけで、横を通り過ぎる中年サラリーマンに「俺の進路を邪魔したな」とばかりに舌打ちされる。手をふりほどいて好きなところに行こうとする娘を叱り、なだめ、どうにか機嫌をとりながら進行方向に進むだけで一苦労だ。子供1人だからどうにかやっていけるけど、これが機動力の違う乳幼児2人だったら、と考えると気が遠くなる。私は特に田舎・欧米礼賛派というわけではないけれど、育児のために田舎に引っ越す人の気持ちや、欧米での育児の気楽さを語る人の気持ちが、よくわかるのである。育児ストレスといったって、子供の我に振り回されるごときは何ほどでもないのだ(少なくとも私は)。結局自分を悩ませていたのは、「ウチの子が特別にワガママで、躾がなっていないとなじられたらどうしよう」という周囲の目だったのかもしれない。そして私が女子アナになれるレベルの真面目人間だったら、「この子が思い通りに育たないのは私が“理想の母親”ではないからで、子供に申し訳ない。私はこの世を去って他の人に子供を託そう」と自殺していたかもしれない。中途半端な真面目さで助かった。

 私は追い詰められそうになると、いつも実母の育児を思い出す。絵本を読んでもらった記憶も、公園に付き添ってもらった記憶も、勉強を見てもらった記憶もない。ご飯は素うどんばかりで、乳児時代は寝かしつけもろくにしてなかったと聞いた。3歳の頃にはすでに虫歯持ちで、いつも怒鳴られてばかりで誉められたことは一度もなかった。「正しい育児」とはほど遠い赤点スレスレの雑育児だが、昔の庶民の母親は忙しかったから、だいたいみんなそんなもんだったんじゃないかと思う。またそれが許されていたから、子供がどんどん産まれてこれたのだろう。結果として私という雑な仕上がりの人間ができあがってしまったわけで、踏襲しようとは思わないが、「“理想の母親”なんかになれるわけないから産むのやーめよ」と母が思っていたらこの世に存在できなかったのだから、雑育児バンザイと言わねばなるまい。そして昔に比べれば、今のお母さんたちの育児はほとんど神の領域である。

 そんなこんなで自分で自分のことを「私の育児ってもはや神」と絶賛しつつ反抗する子供に接してみると、あら不思議。「さすが神の子……こんなに口が回ってスゴイワ!将来はタフなネゴシエイターかしら?」と我が子かわいさが5割増しになるのである。いわゆる母性愛と言われるものは自己愛の延長線上にあるのだから、当然なのかもしれない。いつもギスギスして私を一度も誉めてくれなかった母も、一生懸命家事育児をする自分を誰も誉めてくれないことに不満を抱えていたことを、大人になってから知った。だから「最近の母親はケシカラン!」とお嘆きの識者の皆さん、いい育児をさせたいなら、監視する代わりに誉めるのが一番ですよ。あ、これ子育てと一緒。 

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