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2009.10.15

雨宮塔子の食事日記35

雨宮 塔子

雨宮塔子の食事日記35

9月24日

 まさに“タナボタ”な一日だった。
 一昨日、カメラマンの友人、篠さんから妙に前置きの長い電話がかかってきた。
「ごめんね、忙しい時間に。あのね、水曜日に出てくるのって大変だよね? ベビーシッターさんを呼ばなきゃいけないんでしょう?」
 フランスでは、水曜日がお休みの学校が多いので、習い事などに充てる人が多い。ご多聞に洩れず、私も午前中に息子のジム(体操教室)、午後に娘の絵画教室を入れていて、水曜日は朝から子供たちの送迎に励んでいる。
「そうだね──、それぞれの習い事の場所が離れているから複雑だけど、ベビーシッターさんに頼めなくもないよ。でも、なんで?」
「じつは、ちよちゃん(フードライターのパリの友人)が今パリにいなくて行けないからって、世界中のカキを集めたプレス向けのデギュスタシィオン(試食会)の招待券を回してくれたの。一人で生ガキボソボソ食べてもつまらないし、カキと言えば塔子ちゃんかな、と思って」
「えっ、私も入れるの?」
「プレス担当のリザとは仕事も一緒にしたことがあるし、聞いてみてあげる。当日は『パリごはん』の本をリザに見せてあげたら喜ぶかも」
「本当!? ちょっと待って、ベビーシッターさんに都合を聞いてみるっ」
「あっ、水曜じゃなかった。木曜だ、あさっての」
 木曜日なら、通常通り学校があるから、私は子供たちの就学中に心置きなく生ガキを堪能することができる。この会は12時から15時までの間に行けばいいから、どんなにゆっくり味わったって、お迎えの時刻の16時半にはゆうに間に合う。
「代役なのに一番に乗り込んでいって食い意地を晒すのは恥ずかしいから、12時半頃現地集合ってことで」

 やったぁ、生ガキ。世界中の生ガキって、どんなんかしらん!?
 そんなんで、やってきました。会場となる「PRUNIER」というレストランは“ヴィクトール・ユゴー通り”というゴージャスな場所柄にあるせいもあって、押しかけたプレスの面々も華やかだ。さっそく紹介されたプレス担当のリザさんに、出版されたばかりの自分の本をおずおずと差し出す私。いや、堂々としなくては。プレス然、として。リザさんは日本語が読めなくてよかった。パラパラと本を捲ったリザさんは、松尾ミユキさんの素敵なイラストと、料理の写真にしばらく見入り、私を本物の(?)フードライターだと勘違いしてくれたようだった。
「さぁ、ではカキを堪能してね」
 私たちの心がここにないことを察知したのか、リザさんはそう言ってにっこりと笑い、解放してくれる。
 まず初めに味見したのは、カキが美味しいことで有名なフランスの港町、マレンヌ産の、ピエール・マリー・バローさんの生ガキ。そう、このデギュスタシィオンにはカキの生産者、ご本人が顔を揃えているのだ。
 海を中心とした自然の研究と精緻な分析によって、バローさんのヨードを含んだカキは、塩気と甘味とを備えているという。緑色の層になっているのが珍しい。さっそくいただいてみましょ。小型フォークを生ガキの身の下に差し込むも、鮮度の良さのせいか、貝柱がなかなか離れない。バローさんが私の手元をじっと見つめる。まずいっ、カキに慣れていないと見くびられちゃあなるまい。これでも、篠さんとフランス国内外を含め、少なくないカキを食してきた私だ。
 スポッ。ようやくはがれる。そのまま口元へ。うーん、ちょうど昼時の空腹な胃に沁みる。瑞々しい塩気のあと、じわじわと甘味の到来。美味しゅうございます。
「美味しいと思ってもらえるのが、私の喜びです」
 養殖場からそのままパリに出てきたに違いない、バローさんのいで立ちに心が和む。でも先は長い。次のカキに進む。
 続いてもマレンヌ産の生ガキ。愛想のまったくない、白ひげをたくわえたおじさんが、それでもカキを二つ、皿によそって黙って渡してくれる。さっきのバローさんのそれより、貝殻が深い。
「げっ、これ激ウマ」
 先に貝柱の切り離しに成功し、口に含んだ篠さんが隣で洩らす。あせる。この人の美味しいものに対する言葉は私には絶対で、もうほぼ洗脳されていると言ってもいい。そういう人っていませんか? その人が美味しいと言えば、その食材を味見もせずにダース買いしても構わないと思えるほど食の好みが似ている人が。その人の味覚に絶対の信頼を置ける人が。
 できれば私から先にその言葉を発したかったけど、篠評価満点イコール、雨宮評価も満点なのだった。なんとも表現できない、複雑な味わいがバランスよく混在している。
 その満点ガキ、ジラルドーさんのカキの隣にあるのは、アイルランド産のものらしい。ジラルドーさんのカキの隣にあるのは不運だった。このアイルランドのカキだけ食べていれば、これはこれできっと美味しい、上等のカキなのだけろうけれど、どうしたって見劣りしてしまう。実際、味わいが淡泊に感じられてしまうのだった。
 前半戦を終え、後半戦へと進む。世界中のカキといっても、そこは130年以上の歴史を誇るカキの老舗“PRUNIER”、本日は6種類のカキに厳選しているらしい。

 後半戦第一号はフランス産。フランスのものはものの見事にマレンヌ産のもので占められている。このダビッド・エルヴェさんのカキはかなり肉付きがいい。
“殻はずし”にもかなり慣れてきた。ハグッ。はっきりしたヘーゼルナッツの風味が特徴らしいのだが、私には微妙。もちろんプリッとして木の実の香ばしさもなくはないのだけれど、まだあのジラルドーさんのカキの衝撃が尾を引いている。
 口直しに、田舎パンのスライスにパスカル・ベイユエールのバターをたっぷりのせてかぶりつく。皆さん、覚えてますか? あの、私がテレビ番組でも紹介してしまった通称“キャラメルバター”を(昨年の6月30日、第13回)。魚介類の評判がいいレストランで、付け合わせのバターにこれとは別のバターが出てきたら、その時点で私の中ではその店の評価が下がってしまうほどのバターです。
 さらに、レストランのサービスのお兄さんが差し出してくれた、生ガキにシャンパンのジュレがかかったものをひとつ。この緑色のソースのようなものは、ほうれん草のピュレだという。ん!? シャンパンが少しドライすぎて、カキの味がわからない。このほうれん草のピュレも、あまり意味がないような……。やはり生ガキはそのままストレートにいただくのが一番美味しいのかもしれない。
 再び生ガキのストレート喰いに向き合うべく、カウンターの前に並ぶ。目の前にあるカキは平たく、まん丸の形をしている。オランダ産だ。オランダで130年前から養殖業に励んできたとある業者が、ここ数年はさらに改良に力を注ぎ、今年になって初めて高品質保証を得たという代物。オランダが自信を持って送り出したカキであることは間違いない。
 どれどれ……。ん、このまったりとしたコクは……。
「これ、あのビザンス社のオーストラリアのカキに一番似てない?」
 篠さんがささやく。
 たしかに……。「ブロンと赤貝を併せたみたいな印象」と篠さんに言わしめたビザンス社のカキ(6月14日、第30回)と、それは見た目はまったく違うのだけれど、どこか風味が似ているのだった。それにしても、こんなマニアックな会話ができる人は、この篠さんをおいて他にはいない。
 その隣にあったカキもまん丸で、オランダ産のものと見た目は酷似している。こちらはデンマーク産。プランクトンが豊富なデンマークの北部の峡湾で採れるそれは、スペイン人から高く評価されているという。
 こちらはスッキリ、さっぱり。なるほど、これはオランダ産の生ガキと、好みがはっきり二分されそうだ。
 やっぱり今日の一番はジラルドーさんの生ガキ。またあれを2、3個食べて締めよう、と篠さんと目くばせし合っているところに、笑顔の素敵なギャルソンが登場。調理された小洒落た生ガキにはもう食指が動かないはずだったのに、笑顔につられて、ついついその小さなグラスに盛られた調理ガキをひとつ、手にとってしまう。雨宮、弱し。

 でもその青りんごのジュレと一緒に食した生ガキは、シャンパンジュレ&ほうれん草よりはいいハーモニーを奏でていました。
「ふ──、なんかお腹が寒くなってきちゃったね──」
 生ガキの連投はたしかに身体が冷える。何か温かいもので口直ししたいね、と言い合っていた時だ、今日の会場内で唯一の他の日本人とハチ合わせした。篠さんと私の共通の知人、フードライターのあやちゃんだ。
「これからピエール・エルメのデギュスタシィオンに行くんだけど、よかったら一緒に行く?」
 あやちゃんは特にスウィーツの分野に強いフードライターさんだ。ちなみに青木のお菓子のことも、私より百倍通じている。そんなあやちゃんにはエルメ氏の広報から正式な招待状が送られてくるわけだけれど、篠さんと私は呼ばれてないし、第一、私が青木の妻だとバレたらスパイ行為だと思われないかしら……。そんな思いが頭をかすめるも、シャンパンをしこたま飲んで気が大きくなっているのと、急に甘い物で口直しがしたくなって、っていうかエルメさんの上質できゅっと美味しい大人のスウィーツがなんだが無性に食べたくなって、私たちはダメ元であやちゃんについていくことに決めたのだった。

 会場はトロカデロにあるシャイヨー宮。このシャイヨー宮の東側の翼に、知る人ぞ知る、フランスの建築と文化遺産を総括する美術館があるのだが、エルメさんはその美術館の上階を今回の会場に指名したのだ。
 この場所こそ、フランスのインテリア雑誌「エル・デコ」が毎年ある企画を主催しているところだった。ここは、かつてシャイヨー宮の建築を手がけたジャック・カルルが住んでいた広大なアパルトマンでもあるのだが、「エル・デコ」はエッフェル塔を眼前に見渡せる広いテラスを備えたこのアパルトマンのインテリアを、毎年有名なデザイナーにまるごとお任せでクリエイトしてもらっている。
 今年白羽の矢が立ったのは、メゾン・マルタン・マルジェラ。個人的に好きなデザイナーなので、会場内のインテリアを覗けるのも楽しみだった。
 マルジェラのシルバーに輝くカーテンが天井からはためいている幻想的な通路を通って、プレスの女性たちが待ち構えるデスクの前に立つ。うやうやしく頭を下げてくれるギャルソンたち。あぁ、招待状の提示を求められたら、私たちはすごすごと回れ右をして、彼らの前を引き返さねばならない……。
 幸いにも、プレスのアシスタントさん的な若い女性は、一番前に立つあやちゃんにしか、招待券の提示を求めなかった。
「皆さん、ご一緒ですね」
「はい」
 あやちゃん、ありがとう!! けっして嘘をついたわけではないけれど、余計なことを一切しゃべらないことで私たちを守ってくれたあやちゃんに、胸の中で十字を切る。
 その女性がデスクの上に置いたノートに、3名と記載するのを見届けていた、もうひとりのメインプレスとおぼしき女性が、突然あやちゃんに話しかけ始めた。長びく談笑……。
 こっちにも質問が飛んでくる前に、早くこの場をすり抜けてしまいたいっ。
 その時、サロンの方からひとりの体格のいい男性が現れた。青いスーツに身を包んだ、エルメ氏、その人だった。
 なんとなく目が合いすぎたような気がした。エルメさんは、私のことを覚えているだろうか。去年の夏、ヴェネチアで開催されたルレ・デセール(最高級パティスリー組合)の集会で、数日間、共に過ごしていた(昨年4月6日、第8回)。フランス国内で開かれた今回の集会には、私は同行しなかったけれど、一昨日その会から戻ってきた彼から、初日の朝食用のクロワッサンを、エルメ氏と一緒に担当したことを聞いていた。
 自分の前を通るプレスひとりひとりに握手をするエルメさん。私の番がきた。握手をしながら、思いあぐねた挙句、口にしてしまった。

「こんにちは。青木の妻です。今日は偶然伊藤さん(あやちゃん)とすれ違って……」
 ほかに何と言えばよかったのだろう。もしも黙っていたとして、万が一、エルメさんが私のことを覚えていたら……。招待状もないのに試食会に潜入したりしたら、それこそ彼から偵察を頼まれて来たスパイのようではないか。
 私の顔を窺いながら、微妙な表情で微笑むエルメ氏。その眼光には明らかに「?」の色が漂っていた。
「うわ──、言わなきゃよかった、エルメさん、ぜんぜん覚えてなさそうだし……。どうしよう、なのに自分から名乗っちゃった」
 私の挨拶を背中で聞いていて、思わず背筋が凍ったという篠さんがたたみかける。
「日本人なんて彼にとってみたらそう変わらなく映るんだから、塔子ちゃんだって、どこかで会ったことあるな、くらいにしか思われなかったのに!!」
 たしかに。覚えてもらってなかったという事実と、そのまま通り過ぎていたら日本人の一プレスということで通ったのに、みすみす青木の妻だと洩らしてしまったおバカ加減に、私はかなり落ちた。名乗ったら名乗ったで、一応はライターのはしくれとしてきちんと自己紹介すればいいのに、自分の思い上がった行為に対して急に羞恥心に襲われたため、それも中途半端に終わっていた。
 足取りが重い。けれど、試食会参加を咎められることなく、こうして入れてはいる。こうなったら気を取り直して、マルジェラ&エルメの世界を堪能するしかない。
 まずは一番奥に位置するダイニングへ。テーブルも椅子も、すべてが白いコットン生地で覆われている。整然と並べられたお皿やカトラリーが美しい。銀の燭台の上には、長くロウの垂れた、これまた真っ白な蝋燭が「パーティのあと」というマルジェラが掲げたテーマを見事に語っている。
 なによりも興味深かったのがトロンプルイュ(だまし絵)の壁紙。マルジェラらしいしかけのその白とグレイの壁紙の効果で、扉を次々と開けていけば、このアパルトマンがどこまでも続いていくような錯覚を起こさせる。
「私の部屋にもあの壁紙、欲しいっ」
 篠さんのひと言に和まされ、改めてテーブルや飾り棚の上に展示されたエルメさんのお菓子を眺める。モダンでスタイリッシュ、そしてリュクス。今年度のノエル向けのブッシュ・ド・ノエルもあって、ここにも詳しく書きたいのだけど、それこそスパイになっちゃいけないので、控えておきます。同じ理由で今回は写真も自粛させていただこうと思います。許して下され。

 いよいよサロンに戻って、試食に臨む。この大広間もまた白一色の世界。テラスに面した壁一面のガラス窓から射し込む光がやわらかく回り、清潔感あふれた素敵な空間をつくり出している。4種類のマカロンが一皿ずつきれに並べられている台の目の前に位置するテーブルに陣取る。まだ席に腰を落ちつける前に、篠さんがその中のひとつを頬張っている。篠さん、いつも早すぎだって。
 負けじと一番右側にあったオレンジ色のマカロンをひとつ。うわっ、これ、大変な騒ぎ。めっちゃ好み。このオレンジコンフィみたいな柑橘類のホロ苦さと甘み、ジャリッとする食感がたまりません。
 お品書きを見ると、その名も「幸福」というマカロンだ。スターアニスで風味をつけたキンカンクレームとキンカンのコンフィをビスキュイマカロンが優しく包んでいる。
 キンカン!! そりゃ美味しいはず。あぁ、ナプキンに包んで彼にも味見させてあげたい、って、スパイです。
 他の3種類のマカロンもすべて美味しかったけど(ちなみに青りんごのマカロンと、レモンクレームとバンデピスの層になったマカロン、カシスの実とスミレのクレームのマカロンの3種です)私的には、一番初めに食べたこのキンカンのマカロンが断トツだった。
 すごいなぁ、やっぱりエルメさんって。さらにパワーアップされてるわ。お──っ、ほ──、と唸っていると、黒衣のサービスの女性がメニューを持って、何を召し上がりますか、と聞いてくれる。彼女のおすすめに従って、5種類のスウィーツを少しずつ味見できるデギュスタシィオンメニューに決める。少しずつ、といってもここはフランス。「がっつり」な量を覚悟しなければいけない。スウィーツ腹ではけっしてないのだけれど、私もパティシェの妻のはしくれ。彼に伝えるべく、この舌にしっかりと記憶してやるっす。
 そのデギュスタシィオンメニューとは次の通り。
 ・へーゼルナッツとキャラメリゼのされたアーモンドに砕いたプラリーヌをまぜたガレット
 ・カカオの“ロマネコンティ”と言われる“Chuao”とカシスのガナッシュをカシスの 実と共にショコラ生地で焼いたケーク
 ・“2000フィユ”という、エルメさんの代表作のひとつのミルフィユ
 ・キャラメルモエルーにキャラメルとレモンの汁で湿らしたビスキュイとキャラメル風味のマスカルポーネクレームの組み合わせという、キャラメル尽くしのケーク
 最後は一番斬新だった、「聖なる森」と名付けられた黒トリュフのリゾット仕立てのスウィーツ。器の一番上に蓋のようにのった黒のビスキュイマカロンをのけると黒トリュフ風味の甘いリゾットが現れる。甘いリゾット!? と思うけど、ライスプディングより個人的には好き。さらに奥までスプーンを滑り込ませると、同じく黒トリュフの風味をつけたマスカルポーネクリームとマロンのふわふわしたビスキュイが層になっている。ひとくち目は「?」と思うけれど、食べ進むうちにこの不思議なハーモニーに夢中になっている自分がいる。ちなみに、篠さんも私も完食。
 すべて食べてみて思ったことは、よりレストランのデセール的スウィーツになってきたということ。食感のぶつけ方、組み合わせの妙は、テイクアウト用のガトー、というより、外食時の締めにいただくデセールだ。彼もそうだけれど、パティシェという人たちも、究極的にはお客さんの目の前に差し出して、その場で食べてもらえるものを提供したくなるのかもしれない。

 ハーブティーで胃を落ちつかせ、すっかり満足して部屋を後にする。途中、エルメさんも席まで来てくれて(もちろん、私たちのところだけじゃなくて、一席一席回っている)、にこやかな笑顔を向けてくれたし、私の心にはもうなんの曇りもない。
 が、出口でもらえるはずのプチガトーのお土産が、篠さんと私にはなかった。妙な時に観察眼を働かせる篠さん曰く、プレスのアシスタントさん的女性が紙袋を二つ取って持ち上げかけたのを、チーフプレス(?)が目で制したのだという。この人たちには必要ないわ、と。
 がーん。呼んでないのにずうずうしく来て、結果、タダ喰いしてしまったことに腹を立てているのか、あるいは“スパイ女”だからか……。お土産をもらえない、というのは普通じゃないとまくし立てる篠さんと別れてから、私はいたたまれなくなって、彼の携帯を鳴らした。事前に報告していたら、止められるに違いなかったから、あえてエルメさんの試食会に行ってみてもいいか、聞いていなかったのだ。が、こうなってしまったからには、彼の状況をもまずいものに追い込みかねない。
「ああ、大丈夫だよ。エルメさんはそんなことで腹を立てる人じゃないし」
 意外な彼のリアクションにホッとする。しかも、今回出されたお菓子はブッシュ・ド・ノエルを含めてすべてルレ・デセールでも披露されていて、皆で試食したばかりだという。本当に懐の深い人だよね、エルメさんは、と携帯を切ろうとして、私は慌てて付け加えた。
「青木の“femme”(妻)だと挨拶しといたよ。去年のこと覚えてたらなんだと思ったから」
「ゲッ、“femme”って言ったの!? 改まった席ではふつう“epouse”(妻)を使うんだよ。“femme”だと(女=愛人)になっちゃうよ」
「えっ!? しかも私、“une femme”(愛人のひとり)って言っちゃったような……」
 エルメさんが浮かべた、あの微妙な表情の意味が突然わかったような気がした。
「……。もうチョロチョロするの、やめてくれる?」
 秋風が妙に身体に沁みるのだった。
 夜、篠さんに電話をかける。“femme”だとたしかに(愛人)になっちゃうと思い出した篠さんは、最後にこう言い捨てたのだった。
「愛人のひとりだから、お土産なんて必要ないと思われたのかもね」 

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