Y子さんは八十九歳。来年九十歳になる。わたしの一番年長の友達だ。
 彼女と知り合って数年経つ。会うのは年に数回だから、そんなに親しいというほどでもない。でもわたしは彼女のことが好きだし、彼女のことをわりとたくさん知っている。なぜなら、彼女はとてもよく喋るからだ。

 Y子さんは頭の回転が速くて、わたしなんかよりもずっと早口だ。話し始めると止まらなくなり、何時間でも話し続ける。わたしは、へえ、とか、わあ、とか、そんな、とか、すごい、とか、二文字か三文字の言葉を合間合間に挟みながら、彼女の話を聞く。

 彼女の話はとめどない。子供時代のこと、大きな金融会社で働いていたころのこと、結婚しない主義だったこと、それなのにだんなさんと結婚した理由、淡い恋の話、母親との確執、お金持ちに馬を貰ったこと、母親にはお花の稽古と嘘をついて毎日馬に乗りに行ったこと、乗馬姿が格好良すぎて縁談が山ほど来たこと。さまざまな話が、次から次へとぽんぽん出てくる。

 外国へ行ったときにとある国の大使と公園で出会って意気投合して大使館に招待された話とか、乗馬がうまくなりすぎて国体選手にスカウトされたのに母親が怒って断ってしまった話とか、驚くような話もたくさんある。何度も同じ話を聞いたからすっかり覚えてしまったけれど、何度聞いてもY子さんの話は楽しい。

 Y子さんはフランス語がぺらぺらで、書がうまい。日本画も描いていて、見せて貰った以前描いたという掛け軸は見事だった。背筋がしゃんと伸びていて、今でも月に十冊は本を読む。

 部屋の隅には段ボールが置いてあって、読み終わった本がたくさん入っている。好きなのあったら持っていきなさいと言われるので、毎回数冊、貰って帰る。でもあんまりわたしの趣味に合う本はなくて、正直に言えばまだ一冊も読んでいない。

「昔は推理小説が好きだったけれど、最近は時代小説ばかり読むの。時代小説は推理小説よりも字が大きいから読むのが楽なの」
 そう言われて比べてみたら、確かに時代小説のほうが推理小説より行数が少なく、字が大きかった。字が小さいから読めない本がある人たちがいるのだということを、わたしは今まで考えたこともなかった。

 この間、はじめて手料理をご馳走になった。
「包丁を使うのは大変だから、切るのだけはヘルパーさんにやってもらったの」
 そう言って彼女が出してくれたのは、赤キャベツを茹でて酢やオリーブオイルで味をつけて、ヨーグルトを添えたものだった。手料理までハイカラで、Y子さんらしいと思った。

 美味しい美味しいと食べるわたしをにこにこと眺めながら、彼女はサンドイッチを一切れだけ食べて、お腹いっぱいだと言った。
 旦那さんが亡くなって、まだ数か月。Y子さんは変わらず元気だ。でも少し痩せたみたいだ。子供はいない。

 じゃあそろそろ帰ります、そう言うと、彼女は「寂しい」と言う。寂しい思いをさせてしまうのだったら遊びに来ないほうがいいんじゃないかと一瞬思う。でもY子さんはそんなわたしの気持ちを知ってか知らずか、「でも楽しかったわ」と最後に付け足す。

 彼女の為に何ができるだろう、とぼんやり思う。
 でも何もできないし、きっと何もしない。
 ただこれからもときどき、彼女のする同じ話を何度も聞いて、読まない時代小説を貰って帰ろうと、思う。

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