パソコンが壊れた。
 壊れたといっても動かなくなったわけではなく、こうしてきちんと原稿を書けているので、修理に出すほどではない。

 でも壊れているのは確かだ。普段とは使い心地が違うので、書くペースが乱されている。パソコンを買い替えたりするとまたさらに慣れるのに時間がかかるから、今抱えている仕事がひと段落ついてから修理に出そう、などと考えたまま、もう一月以上が過ぎている。

 壊れているのはキーボードのたった一つのキーだけ。なぜか、バックスペースキーだけが反応しなくなったのだ。
 バックスペースキーなんかなくたって構わないんじゃない? 多くの人はそう思うだろう。確かに、バックスペースキーを使わずにこうしてここまで文章を書くことができている。これが、使えなくなったキーがAだったりしたら、もう文章なんか何も書けなくなるだろう。実際、ここまでの文章で、わたしはAを101回使っている。数えた。疲れた。
Aほどではないにしても、わたしは普段からバックスペースキーを多用していたらしい。らしいというのは、今回使えなくなったことで初めて、多用していたのだということに気づいたからだ。


 わたしの文章の書き方は、頭に浮かんだものを画面を見ながらただひたすらばあっと打ち込み、間違えたらバックスペースキーで戻り訂正しそのまま頭の中が空っぽになるまで書き続け、最後にエンターで確定する、というものである。二百文字くらい一気に打つこともある。同じ作業をバックスペースキーを使わずにやるとなると、間違えたら矢印で一つ戻りデリートキーを押し矢印キーで最後尾に戻り打ち直す、ということになる。作業工程が増えるのだ。

 それだけで文章のリズムが大変に狂う。結果、頭に浮かぶ文章の全部を書き切る前に指がストップしてしまい、せっかく浮かんだ言葉たちをみすみす逃すことになってしまう。 バックスペースキーがこんなに大切なものだったなんて。失ってからはじめて気づいた。

 世の中に不必要なものなんてないのだということを、ひしひしと思い知る。キーボード上にある、一度も使ったことのない「無変換」というボタンも、何を表すのかよく分からない「PgDn」というボタンすら、きっとなくなったら困るに違いない。

 アマゾン配達の過剰な包装も、デパートで洋服を買ったときに紙袋にかけてくれる雨除けカバーも、なくなったらきっと困る。

 ハロウィンパーティーもテキーラ一気もカラオケも、わたしが苦手だから滅んでも全然かまわないと思っていたけれど、きっと世界に必要なものなんだ。わたしにとってはいらないように思えるものも、きっと世界に存在する意義がある

 合コンも。生ガキも。焼き鳥のレバーも。不味いお通しも。肩の部分だけ開いてる女の子の服も。パチンコも。トライアスロンも。ダウンベストも。お喋りな美容師も。害虫も。四月頃になると駅前で泥酔して倒れている学生も。薄っぺらい誉め言葉も。人の悪口ばっかり言っている女友達も。電車の入り口に立ち続けて降りるときに邪魔になる人も。プライドも。結婚したあとの恋も。

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