目を覚ますと、今日は体がちょっと楽な気がした。寝転がったまま腰を深くひねって力を入れる。背骨がコキッと小さく音を立てる。よし。今日は調子がいい。

 昔から背骨をひねって音を鳴らすのが癖だったのだけど、2年ほど前からあまり鳴らなくなってしまった。その理由はわかっている。以前より体が固くなったせいで腰を深くひねれなくなってしまったからだ。

 そのうち、鳴らせる日と鳴らせない日があることに気づいた。調子が良い日は筋肉がほぐれていて音が鳴るまで腰をひねれるのだけど、調子が悪い日は全身が強張っていて体があまり曲がらず鳴らせないのだ。そうやって、背骨が鳴るかどうかが調子のバロメーターになるようになった。

 昔に比べてずいぶん体が固くなってしまったと思う。いや、もともと若いときから体の固さには定評があって、ずっと立位体前屈で指先が全く地面につかない感じだったのだけど、35歳を過ぎたあたりからさらに固さが度を増している。自分は若い頃からだるいだるいと言い続けてできるだけ寝転がって過ごしてきたのだけど、最近の体のだるさやコリは本当にやばい気がしてきている。

 運動したほうがいいよ、と昔からよく言われてきた。だけど体を動かすのが嫌いなので拒否し続けてきた。毎日ランニングをしたりジムに行ったりする人間とは何もわかりあえないとずっと思っていた。しかし、ここ数年はさすがに最近体のだるさが度を越してきたので、何か体を動かしたほうがいいのだろうか、と思ったり、やっぱり面倒臭いなと思ったりを繰り返している。

 ジムにも通ったことがある。というのは、そのとき住んでいたのが風呂のない家で、銭湯に毎日通うよりも近所のジムにある風呂とサウナに入ったほうがよさそうだ、と思って会員になったのだ。そして風呂に入るついでにせっかくだから運動もしよう、と最初はちょっとだけやる気があったのだけど、マシーンに乗って走ったりしたのは最初の二週間くらいで、結局すぐに面倒臭くなって風呂とサウナしか利用しなくなってしまった。ジムってなんかインストラクターの人がみんな「運動しない人は人生を半分無駄にしてますよね(キラッ)」みたいな雰囲気で怖かったし……。

 そんな自分が最近、これだったらできるかもしれない、と思ったのがラジオ体操だ。

 人に勧められて、ちょっとやってみようかと思って、YouTubeで検索するとすぐに公式動画が見つかった。腕を前から上にあげて、大きく背伸びの運動から。

 ラジオ体操なんてやったのは数十年ぶりだけど、あのピアノの伴奏を聴くと自動的に体が動き出していて、すごい、と思った。小さい頃に覚えたことというのは体の中に残っている。これが教育の効果か。

 小学校の頃は夏休みの朝に毎日ラジオ体操に行かされていて、なんで眠いのに早朝からこんなことしなきゃいけないんだ全員死ねって思ってたけど、今となっては良い習慣だったと思う。そのおかげで今でも無意識に体が動く。すごいプロジェクトだな、ラジオ体操って。ラジオ体操のおかげで日本国民の健康は何%か増進されているのだろう。子どもの頃に比べると、同じ動きをしようとしても明らかに体が曲がらなくなっているのに気付かされるのだけど。

「昔、不老不死じゃないことだけがコンプレックスだ、って言ってましたよね」

 と最近言われた。そんなこと言ったっけ。言ってたような気もする。今思うと随分傲慢な発言のように聞こえる。

 そういえば今は昔に比べるとそんなに不老不死になりたいと思っていないかもしれない。千年後や一万年後に人類の文明がどのへんまで行っているかは興味あるし、それが見られないのは残念な気もするけど、結局自分には関係ない話だという気にもなってきた。老いて古びてがたが来る自分の体の、その古び方こそが自分だという感じもしてきた。

 思えばこの体のだるさこそが、自分の生き方を形作ってきた気がする。自分がもっとだるくない健康な体を持っていたら、もっと無理して頑張って社会に適応をしようとしたりして、今とは全然違う人生になっていただろう。それがうまく行ってもっと社会性のある人間になっていたかもしれないし、うまく行かなくてより深く社会に傷つけられたりしたかもしれないし、そのあたりはわからないけれど、良くも悪くもこのだるさとともにあったのが自分の人生なのだと思う。

 僕は今年で四十歳になるのだけど、もう言い訳のしようもなく人生の折返し点を曲がってしまうのだなという感じがする。これから先は下り坂だろう。

 この先歳をとるにつれて、さらに自分の体は固く曲がらなくなっていき、いろんな部分が病気になったり痛み出したりしていくのだろう。だけど、そんなハードウェアの劣化も含めて自分の人生なのだという感じが少ししてきた。

 やがてそのうち確実にやって来る自分の死についてときどき考える。今はまだ、死にたくないな、死ぬのは怖いな、と思う。だけど、自分の体がもっと老いてぼろぼろになって、毎日痛むようになり、いい加減この肉体も耐用年数を過ぎた、と思う頃になったら、自然に死を受け入れることができるのかもしれない。多分それを世間では大往生という。そこまで行かずに来年くらいにひょいと死んでしまうかもしれないけれど。

 まあ、本当にぼろぼろでどうしようもなくなるまではなんとかごまかしつつ頑張って生きていきたい。定点観測のように、ときどきラジオ体操をやって、体が動かなくなっていく具合を一つずつ確かめながら。

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pha『ひきこもらない』

家を出て街に遊ぶ。
お金と仕事と家族がなくても、人生は続く。
東京のすみっこに猫2匹と住まう京大卒、元ニートの生き方。

世間で普通とされる暮らし方にうまく嵌まれない。
例えば会社に勤めること、家族を持つこと、近所、親戚付き合いをこなすこと。同じ家に何年も住み続けること。メールや郵便を溜めこまずに処理すること。特定のパートナーと何年も関係を続けること。
睡眠薬なしで毎晩同じ時間に眠って毎朝同じ時間に起きること。
だから既存の生き方や暮らし方は参考にならない。誰も知らない新しいやり方を探さないといけない。自分がその時いる場所によって考えることは変わるから、もっといろんな場所に行っていろんなものを見ないといけない。