姉は幼い頃、本当におしゃべりだった。毎晩食卓で、いちにちの出来事を矢継ぎ早に話す。「それでね、それでね」。姉はひたすらしゃべり続け、母はひたすら相槌を打つ。わたしは目の前に並んだ色とりどりの食事を見つめ、左手を挙げて黙々と食事をしていた。

 

 左手は、姉の話がひと段落した時に、母から「はい、次はさえりちゃんどうぞ」と当ててもらうためだ。わたしにだって話したいことがあったから。我ながら健気。左手を挙げたまま、5分、10分、15分……。本当に驚くほど、姉はよくしゃべった。……とだけ言えば、母からは笑われてしまうだろう。「あなただって本当によくしゃべったじゃない」と。

 

 

 

 たしかに、姉がいない時は母のことをどこまでも追いかけ回して話をした。お風呂に入ってしまえば洗面所で体育座りをして話し続け、トイレに入ってしまえばそのドアの前で待った。話す内容は、いちにちの出来事だ。Aちゃんが何を言って、Bちゃんが誰を好きで、C君がどんな面白いことを言ったか。そんなことばかりだった。

 

 

 

 あれから20年以上経って、いまわたしは付き合っている彼と一緒に暮らしている。その彼が、本当によくおしゃべりをするのだ。外ではあまり出しゃばるタイプではなく、のんびりしていて、友達の話を笑って聞いている。だから「彼って結構無口なの?」と聞かれることもあるのだけれど、いやこれが本当にびっくりするくらいよくしゃべる。一度話し始めると幼い頃の姉くらいよくしゃべる(というのは言い過ぎかしら)。

 

 

 

「今日な……」という関西弁から始め、いちにちの出来事で印象深かったことをとにかく詳しく教えてくれる。わたしたちはよく帰り際に待ち合わせをして駅から一緒に帰るのだけれど、会った瞬間から、自転車に乗り、家に着き、着替え、ひと段落つくまでの間ずっと喋っている。たまに帰りが遅くなって、よく話をしないまま寝てしまうと、翌朝起きた瞬間から「昨日な……」と話し出す。起き抜けから話し始めた時は、さすがに笑ってしまった。

 

 

 

「それでな、それでな」。次から次に話したいことが溢れ、時には幼い頃の思い出話にまで発展する時、わたしはいつも思う。

 

 

 

「わたしにはそんなに話したいことってないなぁ」。

 

 

 

 そして必ず続けて思う。

 

 

 

「いいなあ」。

 

 

 

 彼が人一倍刺激的な毎日を送っているというわけではない。それに、わたしだっていちにち外へ出て、いろんな人と打ち合わせをして帰ってくる日もある。それなのに彼には話したい出来事が山ほどあり、わたしにはほとんどない。話そうとしても、「今日はカフェに行って仕事をしました。隣にいたおばちゃん達がうるさかったです」と、まあ二行程度で済んでしまう。もっと彼みたいにディテールを話したいのに、正直言ってそこまで覚えていない。幼い頃はいちにちの出来事をあれほどまでに熱心に話すことができたのに、あのころ一体何をそんなに話していたのだろう。近頃のわたしは、話すに足りない退屈な日々を送っているということなのだろうか?

 

 

 

 あまりにも彼が羨ましくなって、先日ついに言ってみた。

 

「わたしも、いちにちのことを話してみてもいい?」

 

 

 

 そのときわたしたちは近所のお寿司屋さんにいて、彼が今日あった出来事を事細かに話したあとだった。

 

 

 

「いいよ」

 

「今日ね……」

 

 

 

 何をして、誰と話したのか。そこで自分はどう思い、何を感じたのか。事細かに話していく。(彼にとっては不本意かもしれないけど、)その日は珍しく彼も一生懸命に話をきいてくれた。姿勢は、前のめりのまま。話を促すような相槌も打ってくれたから、安心して、一つひとつ丁寧に思い出していった。

 

 

 

「えっと、朝はパンを焼いてバターで食べて」。話すうちに、不思議な感覚に見舞われた。なにか映画を見ている時のような。

 

 

 

 こう言えばわかるだろうか。

 

 頭の中に、映画館のような大きなスクリーンがある。そこに、いちにちの出来事を、時間を戻して映し出していく。映像自体はモノクロ。けれど、「そこで隣におばちゃんが座って」と口に出した途端、映像のおばちゃんに色がつく。「飲んだハニーラテがおいしくて」。そう言うと、今度はわたしの手元のカップに色が灯る。「一緒にいた友達がよく笑って」。映像の中で友人が急にイキイキとした顔になる。

 

 

 

 そうして話し終えると、やっといちにち(をテーマにした映画)が完成した。なにかそういう気分だった。

 

 

 

 退屈だったと思っていたモノクロのいちにちに、色がついた。誰かに話すほどじゃない出来事を、聞いてくれる人がいた。どちらも同じくらい尊くて嬉しかった。そして今日いちにちが、思っていたよりもずっと素敵なもののように思えた。

 

 

 

 幼い頃、日常は誰かに伝えたいほどのものだった。毎日が新鮮で、面白くて、一人では抱えておけないほどの出来事が満載で。でも今はもう、出来事は一人で処理できる。大体のことは想定内だし、人に話した時にどんなリアクションが返ってくるかくらい簡単に想像できる。大人はみんな忙しいし、退屈な話ばかりしていられない。だから話すに足りると思えることだけをピックアップして、話す。でも「話すに足りないこと」は本当に価値のないことなのだろうか? 自分で勝手にそう思っているだけで、話してみれば意外と素敵な記憶だったりするのではないだろうか? 伝えたいほどのこともないしと、色をつけずに捨てていき、日々を退屈にしていたのは自分のせいだったのかもしれない。

 

 

 

 たまにでいいから、なにげなくて面白くない、何の変哲もない話をしよう。それが何気ない日々を愛せる秘訣かもしれないし、そうでなくても何気ない話を聞いてもらえた時こそ、特別な扱いをしてもらえたようで嬉しいから。

 

 よし、これからは幼い頃の自分をたまに召喚しよう。お風呂まで追い回しても、許してほしいな。

 

 

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