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片想い探偵

2018.08.29 公開 ツイート

2話 無料試し読み

【須藤凜々花さん激推し本】「推し」の力士が不倫!?ストーキング技術で無実を証明できるか 辻堂ゆめ


「この本を知らない人は、損をしています!」と須藤さん

タレント・須藤凜々花さんが激推ししてくださっている『片想い探偵 追掛日菜子』
一度好きになったら相手をとことん調べつくす主人公・日菜子のストーキング能力に、驚愕する読者が続出しています。その日菜子のエキセントリックな行動&発言は、「さわり」だけでも十分伝わるのでは…!ということで、今回冒頭部分の無料公開に踏み切りました。
プロローグと、1~5話それぞれの冒頭部分を、1日おきに公開していきます。

〈あらすじ〉
追掛日菜子は、舞台俳優・力士・総理大臣などを好きになっては、相手の情報を調べ上げ追っかけるストーキング体質。しかしなぜか好きになった相手は、殺人容疑をかけられたり、脅迫されたりと毎回事件に巻き込まれてしまう。今こそ、日菜子の本領発揮! 次々と事件の糸口を見つけ出すがーー。前代未聞、法律ギリギリアウト(?)の女子高生探偵、降臨。

*   *   *

六月四日、都内某所。

 日がすっかり暮れた時間に、洒落たレストランから出てきた仲睦まじい二人の男女を、本誌のカメラが捉えた。

 大柄な外国人男性は、チェコ出身の現役力士、力欧泉(29)。そして、彼のそばに寄り添っているマスク姿の女性は、不動の人気を誇る国民的女優・瀬川萌恵(27)だ。

 三年前に、脚本家の谷口ヨシユキ(45)と結婚している瀬川萌恵。幸せそうに見えた結婚生活は、いつの間に破綻を迎えていたのだろうか──。

 日菜子の鼻歌をBGMに、翔平はアクションゲームにいそしんでいた。

 夕飯を食べて風呂に入った後、眠くなるまで布団の中で好きなだけゲームをやるという習慣は、大学生になってからすっかり定着してしまった。これでも、朝起きられず講義をサボった日には多少の罪悪感を抱きつつ早寝を心掛けるのだが、明日は土曜だ。翔平の夜は長い。

 筋骨隆々の敵キャラに三連続で勝利し、次が最終戦というタイミングで、翔平は数十分ぶりに顔を上げた。

 さっきから忙しそうに部屋の中を歩き回っている妹へと視線をやり、その手元を見た瞬間、翔平は思わず大声を上げて布団を跳ねのけた。

「おいおいおいおい!」

 携帯ゲーム機を枕の上に放り出す。翔平は慌てに慌て、壁に新しく写真を貼っている妹を呼び止めた。「大声出してどうしたの?」と妹が呑気な声で言い、こちらを振り返る。

 ベッドから降り、仁王立ちになって壁を凝視する。しばらく絶句してから、翔平は恐る恐る妹へと近づいた。

「お前、噓だろ」

「何が?」

「さすがに引くわ」

「え、どうして?」

「だって──節操なさすぎだろ」

「そう?」

「じゃあ訊くけど、ついこの間まで熱を上げてた須田優也は、どういうところが好きだったんだ」

「純粋なところ。役に対して一生懸命で真面目なところ。肌が白くてすべすべしてるところ。普段はクールなのにふとした表情が可愛らしいところ」

「じゃあ、この写真の人物の好きなところは?」

「純粋なところ。常に一生懸命なところ。肌が白くて触り心地がよさそうなところ。身長が一九二センチもあるのにブログの文章がとてつもなく可愛いところ」

 ──共通点は一切ないはずなのに、妹が力説するとよく似て聞こえるから恐ろしい。

 壁に何十枚も貼られた、大柄な西洋人男性の写真を眺める。裸、裸、裸──いや、正確にはまわし一丁。ほとんどの写真が裸同然の姿で写っているせいで、すっかり壁の一角は肌色に染まっている。

「この人……お相撲さんだよな」

「うん。現役の力士」

「何て人?」

「四股名? 力欧泉。本名ならヤン・ハシェック。身長は一九二センチで、体重は一二〇キロ、出身はチェコのオストラバ。もともとはレスリングを本格的にやってたんだけど十八歳の頃に日本の大相撲に感銘を受けて転向したの。相撲歴は十年で、現在二十九歳。歳のわりにはけっこう可愛らしい顔してるでしょ? ホントさ、やばいよね、可愛すぎて息するのがつらいし、もはや可愛さだけで本場所優勝できるんじゃないかな。私、稽古場の柱になって力欧泉にはたかれたい。もしくは両国国技館の土俵の土になって、私の上で四股を踏んでもらいたい。ああ生まれ変わるならどっちにしよう──」

「ストップストップ」翔平は両手を大きく振って、暴走寸前の日菜子を制した。「有名な人? 横綱とか大関じゃないの?」

「東前頭十一枚目」

「何だって?」

「上から五番目の地位だよ。横綱、大関、関脇、小結、前頭」

「ああ、前頭ね」

 翔平がようやく頷くと、「お兄ちゃん、知らないのぉ」と日菜子が新たな写真を貼りながらわざとらしい声を出した。憎たらしい妹だ。

「純粋な疑問なんだけどさ。いったいどうやったら、舞台俳優からお相撲さんにすんなり乗り換えられるわけ? っていうか、どういう経緯で力士に惚れたんだ? しかも、それほど知名度も高くなさそうな人に」

「沙紀に教えてもらったの。最近、女子高生の間で人気沸騰中なんだよ」

「へ? そうなの?」

「ブログがめちゃくちゃ可愛いの。ひらがなとカタカナと、小学校低学年で習う漢字くらいしか使えないみたいなんだけど、食べたものとか行った場所のことを一生懸命書いてるんだよ。あと、日本の顔文字文化が大好きらしくて、オリジナルの顔文字をたくさん作ってブログで使ってるの。沙紀も鞠花もハマっちゃって、最近、三人でやりとりするときは、ブログから取ってきた力士顔文字しか使わないんだぁ」

「……力士顔文字?」思い浮かべようとしたが、まったくイメージがわかない。

「でね! すごいの! 大相撲って、朝稽古の見学が無料なの!」

 日菜子が写真を貼る手を止めて、潤んだ目でこちらを見つめてきた。

「いつでも好きなときに行けるんだよ。回数制限もないんだよ。完全なる無銭イベント。もう信じられない。チケット代も、グッズ代も、CD代もかからないなんて……本当にいいのかな? 逆に申し訳ないから私だけにこっそり口座番号を教えてほしい」

「何だよそれ。もともと無料で公開されてるんだから素直に恩恵を享受すればいいだろ」

「それは無理。私たちファンはね、推しの養分になることを生きがいとしているんだから」

「一般人には理解しがたい思考回路だ」

「はああ、ホント素敵だよね。何度でも会えるお相撲さん。……会える力士」

「会いに行けるアイドルみたいに言うな」

 妹が力欧泉の写真に頰ずりしながら甘い吐息を漏らす。一方の翔平は、正反対の感情を込めて大きく嘆息した。

「つまりは、今回はこの力欧泉とかいう大相撲力士が、お前の新しい推しになったわけだな」

 そう言ってから、はてと首を傾げる。

「いや、『推し』って言うのも変か。力士は、特定のアイドルグループや舞台作品のメンバーってわけじゃないし」

「ううん、推しでいいよ。角界という一つの世界観の中で、私は力欧泉に恋をしたわけだから。力欧泉は私にとって、紛れもない推しです。神様です。力欧泉を日本に連れてきた大相撲という競技に、心から感謝を捧げています」

「もはやなんでもありだな。そんなこと言ったら、人間誰しも何らかのグループに属してるぞ」

 翔平はもう一度大きくため息をついた。まあいい。日菜子が熱狂的に恋をする相手の総称は統一しておいたほうが、こちらも何かと楽だ。

「……とりあえず、よかったな。合法的に会えるし話もできるんだったら、これを機に犯罪からは足を洗えば?」

「犯罪って?」

「ストーカー行為」

「ひどいなあ。ストーカーじゃなくて、追っかけだよ。『何があっても推しに迷惑をかけない』っていうのが、私のモットーなの。本人に危害を加えたり怖い思いをさせたりしたら犯罪だけど、私は絶対に気づかれないように徹底してるから大丈夫」

「何だその独自ルールは。日本の警察には通用しないぞ」

 翔平の忠告を聞き流し、日菜子は壁に写真を貼り付ける作業を続行した。セロハンテープを伸ばして切る音が、断続的に共有部屋の中で響く。手慣れたもので、日菜子の写真を貼るスピードは目を疑うほどだった。みるみるうちに、壁が西洋人力士の写真で埋まっていく。

 何気なく日菜子の勉強机の上へと目をやって、翔平は目を見開いた。近寄っていって、ノートパソコンの脇に置いてあった分厚い本を手に取る。タイトルは『一週間で話せる! チェコ語入門』となっていた。

「日菜、お前、チェコ語勉強してるのか」

「うん。ドブリーデン! イメヌイセ、ヒナコ・オイカケ。デクイー」

「いやいや、せめて英語だろ。受験勉強にもなるし」

「英語じゃ当たり前すぎるもん。ドブリーヴェチェル。ヤクセマーシェ?」

「うん……まあ、好きにすればいいと思うよ」

 夢見る乙女の目をしている妹のそばをそそくさと離れ、翔平はベッドの上へと戻った。

 妹は、いったいどこへ行ってしまうのか。

 兄の気苦労は、まだまだ絶えない。

 素肌に汗をにじませた十数名の力士たちが、土俵を取り囲んで声を上げる。

 その内側では、二人の力士が本番さながらに巨体をぶつけあい、土の上で足を踏ん張っていた。一方の力士が押し出されるか、地面に手をついた瞬間に、周りの力士たちが間髪入れずに「ハイ!」と掛け声を発し、両者の間に割り込む。勝者は、我こそはと挙手している者の中から一名を指名し、さらに次の対戦へと挑む。

 東京都葛飾区にある八重島部屋の稽古場は、木を基調とした壁に囲まれた、小ぢんまりとした一室だった。所属している力士たちがひしめきあう中で、日菜子ら十数名の見学客は、壁にぴったりとくっつくようにしながら黙って稽古の様子を眺めていた。

 稽古場では、力士たちの集中力が乱れないよう、見学する側も注意しなければならない。過去にマナーの悪い客でもいたのか、反対側の壁には『稽古場ではお静かに』という注意書きの紙がでかでかと貼られていた。

 歓声を上げたり力欧泉の名を呼んだりできないことは少々もどかしいけれど、この相撲部屋のいいところは、稽古中の写真や動画の撮影が許可されていることだった。なんてファンに優しいんだろう──と心の中で幾度も感動の涙を流しながら、日菜子はスマートフォンを片手に稽古を見学していた。

 現在、中央の土俵では、勝ち残り形式の相撲稽古が行われていた。

 この形式の相撲稽古のことを、「申し合い」と言うそうだ。土俵の周りで「てっぽう」と呼ばれる柱を手で突いている力士や、ダンベルを持ち上げて筋肉を鍛えている力士、二人一組になって相手の肩の高さまで足を持ち上げ柔軟運動をしている力士など、個人練習に励んでいる力士たちもいるけれど、やっぱり土俵の真ん中でぶつかりあっている姿が一番見応えがある。後輩力士が先輩力士に全力でぶつかって投げられるのを繰り返す「ぶつかり稽古」や、同じくらいの実力の力士同士が幾度も相撲を取り続ける「三番稽古」も、申し合いと同じくらい迫力があった。

 その申し合いで、現在のところ五連続で勝ち続けている白い肌の力士がいた。日菜子の推し──力欧泉だ。

 連続六回目の対戦相手は、八重島部屋で最も高い番付を誇る、関脇の富士ノ春になった。体軀が大きいのは力欧泉だけれど、ベテランの富士ノ春はその体格の差を技術でやすやすとカバーしてしまう。この相撲部屋に関取経験力士は三人で、その筆頭が富士ノ春、次点が力欧泉という順番らしい。

 力欧泉ファンの日菜子としては、ぜひ彼に一番になってほしいところだった。関脇と前頭の実力差がどれほどのものかは分からないけれど、まったく勝てない相手ではないはずだ。

 富士ノ春と力欧泉との一戦は、力欧泉が力強くぶつかっていき、しばらく膠着状態が続いた。最後に、力欧泉がどうにか富士ノ春のまわしを取り、顔を真っ赤にしながら格上の相手を土俵の外へと押し出した。おお、と力士たちの間でどよめきの声が上がる。

 誰にも聞こえないように、「やった」と口パクで歓声を上げる。すると、隣からも小さな呟きが聞こえた。

「そろそろ一番かな」

 声の主は、日菜子の横にしゃがんでいる若い女性客だった。どうやら彼女も、近いうちに力欧泉がこの相撲部屋でトップに立つことを確信しているようだ。富士ノ春はもう三十四歳で、力欧泉は二十九歳。もうすぐ、実力も逆転するに違いない。

 日菜子はちらりと隣に目をやった。

 さっきから、隣の女性のことが気になっていた。

 十数名の見学客のほとんどが中年男性か高齢男性、もしくは夫婦という中で、一人で来ている女性は日菜子を含め二人だけだった。しかも、この女性は、先週日菜子が二日連続で稽古を見に来たときも、今と同じ場所に陣取って長々と朝稽古を見学していた。

 大きなマスクをしているから正確には分からないけれど、年齢は三十前後に見える。髪は肩までのショートボブで、ぱっちりとした目が綺麗な女性だった。

 今日も、午前十時ぴったりに朝稽古が終了した。ほとんどの力士が見学客に対して無表情で頭を下げて退場していく中、力欧泉だけはニコニコと無邪気な笑みを浮かべ、「アリガトネ」と片言で挨拶しながら部屋を出ていく。日菜子が控えめに手を振ると、力欧泉はきちんと目を合わせて手を振り返してくれた。

 ──こんな、至近距離で!

 アイドルの現場では、ファンが〝認知〟をもらう──つまり顔や名前を覚えてもらうために手間暇かけて応援うちわや横断幕を作ったり、握手券を大量に入手して一秒でも多く推しの視界に入ろうとしたりする。それを思うと、信じられないくらい恵まれた環境だ。

 力欧泉の広い背中が視線から消えるや否や、日菜子は帰り支度を始めていた隣の女性に声をかけた。

「あの、珍しいですね! 私以外にも一人で見に来ている女性の方がいて、びっくりしました」

 マスク姿の女性が振り返り、目を細めて笑った。

「あら、私も思ってたの。女性は女性でも、こんなに若い方は珍しいな、って。学生さん?」

「はい、高校生なんですけど、つい最近相撲に興味を持ち始めて」

「高校生なんだ! 大人っぽい服装してるし、お化粧も上手だから、もう少し上なのかと」

 上品なお姉さんといった風貌の女性に褒められ、日菜子は照れ笑いをした。推しに会いに行くときに美意識エンジンがかかるのは、いつものことだ。逆に普段は手抜きしすぎだと、兄や鞠花にはよく怒られる。

 名前を訊かれ、日菜子は自己紹介をした。瀬川、と彼女は名乗った。

「いつも一人で来てるから、話しかけてもらえて嬉しいな。若い人もたまにいるんだけど、自分から話しかけるのは苦手で、いつもそういう機会をロスしちゃってて」

「瀬川さんは、いつから相撲ファンなんですか」

「そんなに長くないよ。今年の一月場所を国技館で見たのがきっかけだから、二シーズン前くらいかな」

「国技館! いいですね」

 日菜子が両手の指を組み合わせると、瀬川はにっこりと笑い、「日菜子ちゃんはいつ頃からなの?」と尋ねてきた。

「私は、つい最近なんです。まだ勉強中の身で。力欧泉のブログが可愛いって友達に勧められて、急にハマっちゃって」

「あ、力欧泉のファンなの? 私もだよ」

「やっぱりそうでしたか! 嬉しい! あんなに力強いのに、笑顔がキュートで癒されちゃいますよね。あと、ブログで使ってる力士顔文字もめちゃくちゃ可愛いですよね。今、高校のクラスでものすごく流行ってるんです。あの、ぜひ、情報交換とかさせてください!」

 日菜子が興奮した口調でまくしたてると、瀬川は可笑しそうにマスクの上に手を当てた。

「一つ、質問してもいいですか」

「いいよ」

「朝稽古以外の時間って、会える時間はないんでしょうか? 私、本当に力欧泉のことが好きで、そういう機会があるならぜひ来たいと思って」

「そうねえ。この後のスケジュールは、まず──」

 一番、二番、三番、と小声で呟きながら、瀬川は細長い指を折っていった。風呂・昼食、昼寝、自由時間、夕食、二回目の自由時間、就寝という、力士の一日のスケジュールを順番に数えているのだろう。それくらいの基礎知識は、日菜子もすでに学習済みだった。

「──たぶんだけど、昼寝と夕食の間の自由時間には会えると思うよ。そのほかの時間は難しいかも」

「本当ですか? 稽古以外でも会えるんですね!」

「力欧泉は散歩が好きで、よくこのへんをぶらぶら歩いてるからね。探してみるといいよ」

 ──この人は、同志かもしれない。

 日菜子よりもファン歴が長いとはいえ、これほど詳しい情報を知っているということは、日菜子と似た〝性質〟の持ち主なのかもしれなかった。

「また、明日も来ますか?」

「明日はちょっと難しいかな。でも、定期的に来てるから、また見つけたら声かけてね」

「ありがとうございます! 楽しみにしてます」

 日菜子はペコリと頭を下げ、そのまま瀬川と別れた。初めて話した人とは思えない親近感が、瀬川にはあった。

 ──稽古場以外でも、どこかで会ったことあるのかな。

 首を傾げながら、日菜子は最寄り駅へと歩いた。競争相手のいない、こんなに平和な追っかけは、ずいぶんと久しぶりのことだった。

 翌日曜日の朝も、同じように八重島部屋の朝稽古を見学しに行こうと、日菜子は朝六時に起き出した。目覚まし時計を止め、勝負服に着替えてから、アコーディオンカーテンを開く。部屋の向こう側では、兄が珍しく起きていて、布団をかぶったままスマートフォンをいじっていた。

「今日も行くのか」

「うん。交通費しかかからないし、別にいいでしょ?」

「やめといたほうがいいと思うぞ」

「どうして?」

「これ、日菜が寝てる間に配信されてたネットニュース。まだ見てないだろ」

 ベッドに寝転がったまま、兄がスマートフォンを差し出してくる。日菜子は訝しがりながら近づいていって、スマートフォンを受け取った。

 画面の文字を読むなり、「がぁっ!」というつぶれた蛙のような声が出た。

「どっから出てくるんだよ、その声……」

「お兄ちゃん! え、噓だよね? ドッキリでしょ?」

「ネットニュースのサイトを自作してまでお前を引っかけるメリットはないな」

 日菜子は呆然と立ち尽くし、画面に表示されている見出しを見つめた。

『瀬川萌恵、巷で人気の外国人力士と堂々不倫!』

 雑誌にしか載っていないのか、写真の掲載はない。しかし、見出しと本文だけでも、日菜子のハートを木っ端微塵にするには十分だった。力欧泉と瀬川萌恵が腕を組んで相撲部屋の近所にあるレストランに入っていくところを、ばっちり週刊誌のカメラマンがレンズに収めたらしい。力欧泉は独身だけれど、瀬川萌恵は三年前に脚本家と結婚していたはずだから、二人が密会していたとすれば立派な不倫だ。

 何より──この瀬川という女性を、日菜子は知っていた。

 昨日稽古場で話した彼女が大きなマスクをつけていたのも、目がぱっちりとしていて綺麗だったのも、どこかで会ったことがある気がしたのも、やけに力欧泉の一日の行動に詳しかったのも、すべて──。

 彼女が、日本で知らない人はない、今をときめく超人気女優だったからだ。

 そして、瀬川と名乗った彼女が、力欧泉の恋人だったからだ。

「瀬川萌恵があんなところにいるなんて普通思わないよぉ!」

 日菜子が大声で叫ぶと、兄が目を丸くしてガバッとベッドから起き上がった。

「日菜、もしかして、セガモエと会ったのか?」

「会っちゃった……」

「まじかよ!」

 動揺したのか、兄が危うくベッドから転げ落ちそうになった。もしかしたら、瀬川萌恵のことがひそかに好きなのかもしれない。そういえば、今やっている連続ドラマも、毎週テレビにかじりつくようにして見ている。

 百貨店の婦人服売り場で働くしがない女性店員が、嫌な同僚や上司を次々と蹴散らして会社の中でのし上がっていくという、爽快感を売りにしているドラマだ。そういえば、テレビをよく見ている母が主演の瀬川萌恵をえらく褒めていた。「知り合いのアパレル店員に取材して役作りをしたんだって」というその言葉のとおり、瀬川萌恵のリアルでひたむきな演技は世間でも高い評価を受けているようだ。

「セガモエとどこで会ったの? 稽古場で? どんな人だった? 顔小さかった? 話した?」

 興奮した兄が矢継ぎ早に質問を投げかけてくる。そんな兄に無言でスマートフォンを突き返し、日菜子はよろよろと自分のスペースへと戻った。

「おい、ちょっと待てって!」

 兄が引き留めようとするのを無視し、アコーディオンカーテンを閉めた。

 そのまま、ベッドへとダイブする。

 ──嫌だよ。

 ニュースを見てしまった今、これから八重島部屋の稽古場に向かう気力はさすがに起きなかった。

 ──信じられないよ。噓って言ってよ。

 恋人がいることが発覚したとか、そういう試練なら乗り越えられる。それが推しにとっての幸せなら、ファンである日菜子も全面的に応援するべきだからだ。

 だけど──不倫となると、話は別だった。

 そのまま、ベッドの上でぐるぐると考え続けた。窓の外で太陽が高く昇っていき、部屋の中がだんだんと暑くなってくる。

 梅雨入り前の太陽は容赦なく室内の気温を上げ続けた。まだ布団の中でうじうじと悩んでいたかったけれど、蒸し暑さが日菜子をベッドから追い出した。Tシャツにスウェット生地のショートパンツという服装に着替え、力なくアコーディオンカーテンを開く。兄も同じ思いをしていたのか、ちょうどベッドの上で起き上がって、階下に向かおうとしていた。追掛家では、冷房をつけるのは家族が集うリビングだけと決められている。

「寝込んでたの? ダメージ受けすぎ」

「お兄ちゃんがあんなニュース見せるからだよ」

「相撲部屋に向かう電車の中で読んだほうがショックだっただろ。そうだ、最新のニュース見た?」

「……見てない」

「瀬川萌恵の所属事務所は『そのような事実はございません』っていうお決まりのコメントを出してる。一方、力欧泉サイドは『恋愛は本人の自由です』だって。こういうときって大抵クロだよな。まあそもそも、日菜が相撲部屋で瀬川萌恵を目撃したっていうのが何よりの証拠なんだけど」

 兄はなぜか生き生きとしていて、「写真、撤去するの手伝ってやろうか?」と壁を指さしながら尋ねてきた。剝がしたくて仕方がないらしい。

「お兄ちゃんは、瀬川萌恵が不倫したってニュース、ショックじゃないわけ?」

「まあ、それなりにな。でも、所詮テレビの中の人だろ。たったそれだけのことでショックを受けて寝込んでしまうお前のほうがおかしい」

 そうは言っても、兄に言われるがまま写真を片付けるのは癪だった。まだ、力欧泉の追っかけをやめると決心がついたわけでもない。

 それに──一つ二つ、気になっていることがあった。

「ねえ、お兄ちゃんって、車の運転できる?」

「へ? まあ、去年免許は取ったけど」

「あと、瀬川萌恵が出てるドラマの舞台ってどこか知ってる?」

「『百貨店の女』のこと? それなら、新宿のデパートじゃなかったかな」

「撮影用のセットじゃなくて、ちゃんと現地で撮ってるのかなぁ」

「たぶん現地。ロケ現場から出てくるキャストを見ようと人がたまに集まってるって、新宿の居酒屋でバイトしてる友達が言ってた。たぶん開店前か閉店後に撮影してるんだと思う」

「そっか、新宿かぁ……」

 日菜子は手にしていたスマートフォンで地図アプリを開き、経路を検索した。表示された所要時間を確認し、「よしっ」と頷く。

「もしかすると、もしかするかも。お兄ちゃん、レンタカー手配しといて」

「は?」

「検証に必要なの。私は計画を練るから、お兄ちゃんはとりあえず手続きをよろしく。今日、暇だよね?」

「え、まあ、予定はないけど──」

「じゃ、一時間後に出発ね!」

 日菜子はくるりと回れ右をし、勉強机の前に座ってノートパソコンを立ち上げ始めた。後ろで「検証って何だ、きちんと説明しろ!」と叫んでいる兄の声が聞こえたような気がしたけれど、その質問に答えている時間は露ほども残されていなかった。

*   *   *

ページを捲る手が止められなくなること間違いなし!(編集部)

関連書籍

辻堂ゆめ『片想い探偵 追掛日菜子』

追掛日菜子は舞台俳優・力士・総理大臣などを好きになっては、相手の情報を調べ上げ追っかけるストーキング体質。しかしなぜか好きになった相手は、殺人容疑をかけられたり脅迫されたりと、毎回事件に巻き込まれてしまう。今こそ、日菜子の本領発揮! 次々と事件解決の糸口を見つけ出すが――。前代未聞、法律ギリギリアウト(?)の女子高生探偵、降臨。

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辻堂ゆめ 作家

1992年神奈川県生まれ。東京大学卒。第13回「このミステリーがすごい!」大賞優秀賞を受賞し『いなくなった私へ』でデビュー。他の著作に『コーイチは、高く飛んだ』『あなたのいない記憶』(宝島社)、『悪女の品格』(東京創元社)、『僕と彼女の左手』(中央公論新社)がある。

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