今年のお盆は、実家に帰らなかった。フリーランスになってからは、わざわざ大混雑のラッシュ時に帰らなくてもいいやと思うようになってしまった。またいつでも帰れるし、秋にでも帰ろう。本来は、この時期は死者が浄土から地上に戻ってくる“お盆”の時期だ。おそらく、わたしを可愛がってくれていた祖父は山口県で暮らしていたから、あそこへ戻るのだろう。わざわざ東京まで様子を見にきてくれたりはしない(多分)。わたしが帰るべきだったんだけど、ごめん。

 

 

 

 SNSに並ぶ「実家に帰っています」の報告を目にして、仄かな後悔を胸に過ごしていたとある昼下がり、わたしはうとうとと眠ってしまった。青いソファに沈みこんで、裸足を投げ出して。そしてハッと目が覚めた時、辺りはぼんやり青かった。深い眠りに入っていたのだろうか、目覚めた瞬間、一体ここがどこであるのかがわからなくなってしまった。今は何時だろう、なにが起こっているのだろう? 混乱からゆっくり覚めていく瞬間、なぜか実家の和室を思い出した。

 

 

 

 山口県にある実家には、畳の部屋がある。い草の香りが漂うその部屋は、いつも静かだった。そこに布団が敷いてある。投げ出した足が、ひんやり冷たい。部屋はうす暗いが目の前のふすまから、やわらかく光が射している。入り口近くをみると、犬の散歩用リードがひとつ落ちている。散歩用の袋、隣にわたしの教科書。隣にある玄関がガチャッと音を立て、誰かが帰ってきた。誰だろう。……。

 

 

 

 目を開けると、もちろん東京の家にいた。眠っているのは畳ではなく、青いソファ。再び、夢を見ていたようだ。

 

 

 

 

 

 山口県に引っ越したのは小学5年生の頃だった。それまでは父の転勤に伴って、東京や福岡へ1年半のスパンで引っ越しを繰り返した。とはいえ、父も母も元々は山口生まれ。私自身も、下関で生まれた。それで、小学5年生の頃、再び山口への転勤が決まったのを機に、わたしたちはそこに家を買うことになった。姉は中学生になっていたし、この先は父が単身赴任をするという方針になったようだった。

 

 

 

 久しぶりに住むことになった山口県。当時の印象は一言でいえば、「最悪」。

 

 物心ついてからしばらく都会で育っていたこともあってマセまくっていたわたしは、「こんな田舎で暮らすなんて無理」と思った(いや、むしろ“言って”た)。家を一歩出れば山が見える、車で1時間走ってもディズニーランドも天神もない。1日乗らないだけで自転車には蜘蛛の巣ができたし、頭のあたりに飛び続ける虫は目障り。新しくできた友達も、どこか垢抜けないように見えた。

 

 

 

 さらに運の悪いことに、学校はとんでもなく古かった。廊下の半分が土間になっているという、一昔前の作り(初めて見た)。トイレは薄暗く、天井には緑のシミがあった。用を足していると、上からぽた、ぽた、と冷たい水が落ちてくるのだ。とんでもない。

 

 

 

 朝になればお腹が痛いとわめき、学校へ行く途中で道を引き返した。母親とすぐそばまで歩いていくのに、途中からどうしても歩けない。

 

 そうしてわたしは引っ越してすぐに、不登校になってしまった。

 

 

 

 不登校になってしばらくすると、家におじいちゃんとおばあちゃんが会いにきた。今思えばわたしが不登校であることを心配して様子を見に来たのだろう。グレーの帽子をかぶって、首にタオルを巻いたおじいちゃんがなぜか庭に居たときはびっくりした。「遊びに来たよ」。何かそういうことだけを話した。

 

 

 

 誰も「学校へ行きなさい」とは言わなかった。

 

 

 

 毎日家へ来てくれて、交換日記のようなものをしていた担任の先生すらも、「学校に来たら?」というどころか「たまには休んでもいいのよ。階段を上るのに疲れたら、休んで、そこから見える景色を楽しめばいいの」と言ってくれたのをよく覚えている。

 

 

 

 一度だけ「学校は、古いから嫌い。トイレだって怖いし」と漏らすと、しばらく経って先生がトイレをピンクに塗ってくれたこともあった。ベタッと塗られたピンクの扉。しかし天井は相変わらず緑のまま(笑)。それはそれでおどろおどろしかったが、たった一人の生徒のためにそんな風にしてくれたことが子供ながらに嬉しかった。

 

 

 

 おそらくわたしの不登校期間は2ヶ月とかその程度だったと思う。友達の記憶では、わたしは秋頃転校してきた女の子となり、なんの問題もなく学校生活へと戻っていった。直後に学校は取り壊されることになり、小学校6年生になってからはプレハブ校舎になった。安っぽくておもちゃみたいだったが、トイレは綺麗だった。今はもう、どちらの校舎もない。

 

 

 

 

 

 山口に馴染んできた頃、おじいちゃんが死んだ。

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