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人類の悲劇を巡る「ダークツーリズム」が世界的に人気だ。7月30日に発売された『ダークツーリズム~悲しみの記憶を巡る旅~』(井出明)は、代表的な日本の悲しみの土地と旅のテクニックを紹介。光と影が織りなす、未知なる旅への案内をどうぞ。

ダークツーリズムで観る近代

 筆者が研究を続けていくうちにわかってきたことであるが、ダークツーリズムの旅を続けることで、近代の構造が見えてくるという効用があった。これは複数の地域を巡ると腑に落ちてくると思う。

 例えば被爆地としてのヒロシマやナガサキで語り部の声を聞いたとしても、「お気の毒ですね」というレベルの共感と、核兵器に対する一方的な怒りしか湧いてこないのかもしれない。これ以前に、一般市民への無差別大量爆撃の前例としてはゲルニカの悲劇があり、日本人としては、(筆者はまだ赴いてはいないものの)中国が「無差別」と主張する重慶爆撃との共通点と相違点を考えるべきであろう。

 さらに、核を肯定するテニアン島のエノラ・ゲイ出発地の記念碑やラスベガスの核実験博物館などの説明を通じて、マクロ的に「核というものはどういう意味を持っていたのか」という問いに対する多面的な歴史観が構築されてくる。換言すれば、国民全体が関わるようになった近代の戦争と、その帰結としての核の投下という事象に対して、一人ひとりが体系性を持った思いを語ることが可能になるのである。

 これはある意味気楽な「旅人」だからこそ味わえる経験であり、一カ所に根を下ろして、その地と同化した場合は、距離を置いた体系性を捉えることが難しくなってくる。被爆者一人ひとりの体験も言葉も重いがゆえに、かえって全貌が見えにくくなるのである。

 歴史家の山室信一が『キメラ──満洲国の肖像(増補版)』(中公新書)において「その時代を生きたということは必ずしも、その時代を総体として知っていたということを毫ごうも意味しない」と述べているとおり、個別の事象を体験された方の話はそれぞれ重要ではあるけれども、それだけでは歴史なり、社会なりの全体像を把握できないという問題は常に意識しておいたほうがよい。多くの情報を受け手の側で集め、それを再構成することの意義がここでは説かれている。

 そして、同書は別箇所で「空間そのもののありかたや空間認識という観点から人文・社会科学研究の再構築を図ることが、21世紀には緊要な課題として浮かび上がってきている」という問題提起を行っている。考察の対象を理解するためには、それがどの程度の距離なり、大きさなりを持っていたかということを知ることは非常に重要である。

 にもかかわらず、これまでの日本ではこうした直観的な感性に訴えかける研究方法はあまり顧みられることはなかった。ダークツーリズムが、非常に強力な分析のツールとなっているのは、訪問することによってこれまでないがしろにされてきた空間への理解が促進されるということも一つの理由ではないかと推察される。

 悲しみの記憶を求めて様々な地を旅することで、「近代とは何か」という根源的問いに対するそれぞれの思いが湧き上がってくるであろう。これこそが、ダークツーリズムを体験することで得られる本質的価値の一つと言ってよい。
『ダークツーリズム』第一章「ダークツーリズムとは何か」より)

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井出明『ダークツーリズム 悲しみの記憶を巡る旅』

人類の悲劇を巡る旅「ダークツーリズム」が世界的に人気だ。どんな地域にも戦争、災害、病気、差別、公害といった影の側面があるが、日本では、それらの舞台を気軽に観光することへの抵抗が強い。しかし、本当の悲劇は、歴史そのものが忘れ去られることなのだ。小樽、オホーツク、西表島、熊本、栃木・群馬などの代表的な日本のダークツーリズムポイントを旅のテクニックとともに紹介。未知なる旅を始めるための一冊。