戦国時代は世界の大航海時代だった。
スペインやポルトガルは世界中で植民地獲得に乗り出し、その波は日本にも押し寄せていた。織田信長はこの問題に直面したわが国初の為政者だったのだーー。
直木賞作家安部龍太郎氏が、世界史における本能寺の変の真相に挑み、発売即重版の話題作『信長はなぜ葬られたのか』より、「朝廷をも支配下におこうとした信長の野心
」を限定公開いたします。

安土城跡の「清涼殿」に隠された信長の野心

「安土城に天皇用の御殿」
「京都御所の清涼殿そっくり」
「信長、天下人の威勢誇示か」

 二〇〇〇年二月十一日の新聞各紙には、このような刺激的な見出しが並んだ。
 安土城の発掘を進める滋賀県安土城郭調査研究所が、本丸跡の礎石配置が内裏の清涼殿に酷似していると発表したからである。
 建築史家の内藤昌氏の談話によれば、当時一間を七尺以上にするのは天皇だけが使う別格の建物であり、七尺二寸の柱間の御殿であったことを裏付けるものだという。
『信長公記』には、天正十年(一五八二)正月朔日に信長が御幸の間を公開したと記されているが、その記述の正しさを証明する発見ともなった。

 問題はこのようなものを作った信長の意図だが、各紙に寄せられた識者の意見は二つに分れていた。
 ひとつは安土城に天皇を迎えて天下に威信を示そうとしたというものであり、もうひとつは城内への天皇の移住まで視野に入れていたとするものだ。
 また、このことが天皇の権威を重んじてなされたのか、それとも天皇を城内に取り込もうとしてのことかについても見解は分かれているようである。

 筆者はこれまで、本能寺の変の背後には信長と朝廷との熾烈な争いがあったという観点から本稿の論を進めてきた。
 それだけに二月十一日の新聞記事を見た時には、体の芯が震えるような感動を覚えた。
 信長が本稿の執筆を助けようとして、四百余年ぶりに己れの意図を明らかにしたとさえ思えたほどである。
 その意図とは、正親町天皇の皇太子誠仁親王の即位を果たした後に安土城内の「清涼殿」に移住させ、折を見て猶子とした五の宮に譲位させるというものだ。

自分の住居である天主閣から見下ろす位置に「清涼殿」

 信長はすでに天正七年(一五七九)に誠仁親王一家を二条御所に移住させ、自家薬籠中のものとしていたが、今度は安土城内への遷都さえ企てていた。
 しかもそれが天皇の権威を重んじてのことなどではなく、朝廷を支配下におこうという野心によるものであったことは、自分の住居である天主閣から見下ろす位置に「清涼殿」を作ったことからも明らかである。
 猶子とした五の宮を即位させれば、信長は太上天皇と同等の資格で朝廷を意のままにすることができる。御殿の建築はその時にそなえたものだった。

 証拠はもうひとつある。
 二月十一日の新聞各紙では誰も言及していなかったが、内裏の清涼殿と城内の「清涼殿」とは間取りは同じだが、東西の配置が逆になっている。
 前者は東庭に面して鬼の間、御帳の間、東中段と並んでいるが、後者ではこれがそっくり西側に配されているのである。
 これは敷地の都合でそうなったなどと言って済まされる問題ではない。なぜなら清涼殿の間取りは古式によって厳しく定められているからだ。
 それに配置を変えても屋敷の広さは同じなのだから、正規の間取りにすることは容易だったはずである。
 なのに何ゆえ反対にしたのか?
 答えは簡単である。信長が住居としている天主閣が西側にあったからだ。
 御帳の間は帝が群臣と対面したり、儀式を行なう所である。その場所を朝廷の古式を無視して自分の方に向けさせたところに、尊皇の仮面の下に隠した信長の意図が明確に示されている。

 おそらくこのことは、当時においても世の非難を招いたのだろう。本能寺の変の直後に次男信雄が安土城に放火したのは、信長のかかる僭上の痕跡を一刻も早く消し去りたかったからではないだろうか。
 永禄十一年(一五六八)の上洛以来、信長と朝廷とは利用し利用され合う関係をつづけてきた。
 信長は朝廷の命を大義名分として天下統一を進め、朝廷は信長の援助によって復興を成しとげたが、両者は同床異夢の関係にあった。
 それゆえ本能寺の破局を迎えるわけだが、両者の最初の出会いとはいかなるものであったのだろうか?

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安部 龍太郎『信長はなぜ葬られたのか 世界史の中の本能寺の変』

戦国時代は世界の大航海時代だった。スペインやポルトガルは世界中で植民地獲得に乗り出し、その波が鉄砲やキリスト教伝来という形で日本にも押し寄せていた。織田信長はこれにどう対処するかという問題に直面した、わが国初の為政者だったのだ――安土城跡に発見された「清涼殿」の意味、スペインからの使者・イエズス会ヴァリニャーノとの熾烈な交渉、そして決裂。その直後に本能寺の変は起きた……。江戸の鎖国史観から見ていてはわからない、世界史における本能寺の変の真実。信長が背負っていた真の孤独とは。