戦国時代は世界の大航海時代だった。
スペインやポルトガルは世界中で植民地獲得に乗り出し、その波は日本にも押し寄せていた。織田信長はこの問題に直面したわが国初の為政者だったのだーー。
直木賞作家安部龍太郎氏が、世界史における本能寺の変の真相に挑み、発売即重版の話題作『信長はなぜ葬られたのか』より、「豊臣秀頼の妻、千姫はキリシタンだったのか」を限定公開いたします。

千姫はキリシタンだったのか

 先日、津軽半島に取材に行った。弘前ねぷたを見学し、翌日には青森ねぶたに跳人として参加し、十三湊の遺跡や三内丸山遺跡を見学する、大変充実した三泊四日の旅だった。
 中でも興味をひかれたのが、弘前市の耕春山宗徳寺にある石田三成の孫の墓だった。

 津軽藩初代藩主津軽為信は石田三成と親しかったためか、関ヶ原の戦いで三成が敗死した後、息子の重成と娘の辰子を津軽に引き取ってかくまった。
 重成は杉山重成と姓を変えて津軽家の重臣となり、息子の吉成が家をついだ。宗徳寺にあるのは吉成の墓だが、その墓石には「杉山氏八兵衛豊臣姓吉成」と刻まれている。
 つまり三成は秀吉から豊臣姓を名乗ることを許され、子孫の杉山家では代々そのことを墓石に刻みつづけた。歴史の資料からは抹殺された事実が、この墓石によって後世に伝えられている。

 一方、娘の辰子は、驚くべきことに二代藩主津軽信牧の正室になっている。これも津軽為信と三成の関係の深さをうかがわせる事実だが、さすがに徳川幕府の世が定まってからは、このことは問題視されるようになった。
 そこで信牧は徳川家康の養女満天姫を正室に迎え、辰子を側室に格下げして、津軽家の飛地である群馬県太田市尾島町大舘に移した。そこで「大舘御前」と呼ばれるようになるが、徳川の世にあってはいつ殺されるか分からない危うい身の上だった。

 彼女の後ろ盾となったのが、豊臣秀頼の妻だった千姫である。千姫は尾島町のすぐ近くにある満徳寺を訪れた時、辰子の不幸な境遇を知った。
 そこで満徳寺の駆込寺としての権威を高めることによって、万一の時には辰子が避難することができるように計らったという。

千姫のお墓に刻まれた隠れキリシタンの証

 駆込寺といえば鎌倉の東慶寺が有名だが、こちらも千姫にゆかりがある。

 大坂夏の陣の時に大坂城から助け出された千姫は、祖父の家康に懇願して秀頼の娘千代姫の命を助けた。
 そして秀吉の側室だった足利島子の姉が、東慶寺の第十九世住職だった縁を頼り、千代姫を尼僧天秀尼として入山させた。その後、徳川の世で不遇をかこつ豊臣ゆかりの女たちを救うために、駆込寺の制度を強化していったのである。

 少し前に公開された映画『駆込み女と駆出し男』で、東慶寺の内殿にキリスト教の信仰を伝える品々が秘蔵されているシーンがあって驚いた。もしこれが事実なら、駆込寺の制度はキリシタンの女性たちを守るために始まったと解釈できるからである。
 この映画の原案は井上ひさしの『東慶寺花だより』(文春文庫)だというので、いつか原作を読まなければと思っていたが、それより先にこの問題について明快に記した一冊に出会った。

 川島恂二著『関東平野の隠れキリシタン』(さきたま出版会)である。
 この本の中で川島氏は、東慶寺に保存されているイエズス会の標章が入った聖餅箱(聖餐式に用いるパンをおさめる箱)は、千姫から千代姫に渡されたものだと記しておられる。
 常総市の弘経寺には、千姫と千代姫の別れの場面を描いた絵が寺宝として保存されている。ここに描かれた別れの席で、千姫が東慶寺に入る千代姫に聖餅箱を託し、信仰を守りつづけるように諭したのかもしれない。
 さらに決定的な証拠があると、川島氏は東京小石川傳通院にある千姫の墓の写真を掲載しておられる。
 五輪塔の台座には「天樹院殿、栄誉源法松山、大禅定尼」と三行に分けて刻まれているが、大禅定尼の四文字にキリシタンの証である十を刻み込んでいる。中でも禅の字には偏とつくりの間に小さく十の字を入れてある。

 川島氏は平成六年四月にこの墓石を拝んだ時、千姫がキリシタンであったことを確信されたという。氏は長年の間、隠れキリシタンの研究にたずさわり、石仏や墓石の隠符からその実態を解明してこられたので、これが隠符であることがすぐに分かったのである。
 江戸時代にはキリシタンに対する弾圧が熾烈をきわめた。それでも信仰を守りつづけた人々が大勢いて、石仏や灯籠などにひそかにキリスト教を示す隠符を刻み、信仰の対象にしてきた。墓石にも隠符を刻み、キリシタンであったことを後世に伝えようとしたのである。

 以前、姫路市で黒田如水のキリシタン信仰について講演をした時、加西市の方から「市内の北条にはキリシタンの墓がたくさんあり、宣教師を表したと思われる五百羅漢も残されています」と教えていただいた。
 なぜ加西にそんな物が残されたのだろう。如水ゆかりのキリシタンたちが住んでいたのだろうかと疑問に思ったものだ。

しかし川島氏の著書に、加西は千姫が化粧料としてたまわった土地だと記されていて、その疑問が氷解した。千姫が姫路城主本多忠刻に嫁ぐと、多くのキリシタンたちが千姫を頼って加西に移住したのである。
 だが千姫がキリシタンだったとすると、大坂の陣の解釈は一変する。

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安部 龍太郎『信長はなぜ葬られたのか 世界史の中の本能寺の変』

戦国時代は世界の大航海時代だった。スペインやポルトガルは世界中で植民地獲得に乗り出し、その波が鉄砲やキリスト教伝来という形で日本にも押し寄せていた。織田信長はこれにどう対処するかという問題に直面した、わが国初の為政者だったのだ――安土城跡に発見された「清涼殿」の意味、スペインからの使者・イエズス会ヴァリニャーノとの熾烈な交渉、そして決裂。その直後に本能寺の変は起きた……。江戸の鎖国史観から見ていてはわからない、世界史における本能寺の変の真実。信長が背負っていた真の孤独とは。