地元・山口県に「別府弁天池」という池がある。驚くほど美しいエメラルドグリーンの池で、底が見えるほど透明。年間通して14℃に保たれている池の水は、毎分11トンも湧いているらしい。こじんまりとした神社のそばということもあり、パワースポットとしても有名だ。

 

 

 

 実家へ帰ると、よくそこへ連れて行ってもらう。何度見ても、何度訪れてもあんまりにも綺麗でため息が出る。

 

 

 

 一度、そばまで降りて行って、両手で水を掬いあげたことがある。当然、ぽた、ぽたぽたと手の隙間からこぼれ落ちていった。こんこんと湧き出て、なくなることはない池の水。あの美しい水。わたしの手の中には、たったひとときしか留まってくれない。

 

 

 

 *

 

 

 

 最近、なにかを忘れていく感覚がある。なにを?と聞かれても、わからない。なにを忘れたかさえ、わからない。ただ、それでもなにかを忘れゆく気配だけが確かにある。生きていれば当然忘れてしまうようなもの。たとえば桃をむくときの甘い匂いとか、彼と大笑いした時間とか、愛おしく感じた瞬間のこととか、姉が絶妙なタイミングで笑ってくれた嬉しさとか、そういう些細なもの。これまでだってずっと忘れてきた。

 けれどなぜか、今は焦りがあるのだ。忘れたくない、忘れたくないと、記憶の端をつかむけれど、シュルシュルと手から抜けていってしまう。

 

 

 

 

 それで慌てて、日記を始めることにした。

 じつは中学生ごろからずっとゆるく日記を書く習慣は続いているのだけれど、ここ最近サボっていた。久しぶりに書きはじめたそれらには、これまでよりも“出来事”を書き記すようにしている。とは言っても、忙しい毎日で日記を書き続けるのは難しいので、雑なメモが多い。

 

 

 

 たとえばこんなふう。

「お姉ちゃんとごはん。ガスパチョ」

 

 

 

 他の人から見ればただのメモだろう。けれど、わたしはこの“ガスパチョ”という文字を見るだけで、あらゆることを思い出せる。ガスパチョのあの冷たい酸味、賑やかなお店、カウンターの高い椅子、お姉ちゃんがカーディガンを汚したこと、丁寧な店員さんが学校の先生みたいだったこと、砂肝のアヒージョ、かたいバゲット、目の前のサングリア。話したことは、結婚のこと家族のこと映画のこと仕事のこと。

 

 

 

 写真を一枚撮っておくだけでその前後の出来事を思い出せるのと同様、ただの出来事のメモでも記憶のとっかかりとなる。どんな気持ちで、どんな景色を見ていたかが思い出せる。こんな風に少しでいいからと、一生懸命になにかを書き残している。パソコンに向かって、あるいは夜中、暗い部屋で携帯に向かって。携帯の明るすぎる光を浴びながら、一日の中でもっとも忘れたくないことを打ち込んで、安心して眠りにつく。

 

 

 

 

 

 

 昔から、書くのは好きだった。

 いや、書かなければ自分が考えていることさえ、不確かで不安だったとも言える。ときに考えたことを書き、ときに感情を書き残し、ときに出来事を書き残した。そうすることでわたしが体験したことや考えたことはようやく形を作り、やっと自分でも確認することができる。そんな風に感じていた。

 

 

 

 こんな話、もしかしたら全然ピンとこない人もいるかもしれない。

 自分が感じたことがどんなものかなんて、確認せずとも理解できるでしょう。だって「自分」が感じたことでしょ? そんなの自分が一番わかってるに決まってるじゃない、と。

 

 

 

 でもわたしには、どうしても「自分」がわからなかった。「自分」が一番不確かな気がした。考えていたことでさえうまく言葉にできないし、思っていたよりもずっと落ち込んでしまうときだってあった。それに、わたしだけがひそやかに体験したことは誰にも確かめることができない。どうして「本当に“在る”」と言えるのだろう。言葉にも、絵にも、写真にもしていないのに、なぜそれを確認できるのだろう。

 

 

 

 だから書くと、心底安心する。「こんなことを考えていたんだ」「こんな風に感じていたんだ」「そういえばこういうことがあったんだ」。やっと、理解ができて、ホッとするのだ。

 

 

 

 ときに、「たしかに“在る”はずなのに、うまく書けない・言えない」ということにも直面する。そういうときは、(ちょっと極端かもしれないけれど)さほど存在していないのだろうな、と思うようにしている。自分の中にしっかり在ること、もっと具体的にいえば、しっかり理解できていることしか、言葉というものになって外に出て行くことはできない。だったら、「書けないこと」は「そこまで感じていないこと」と同義のような気がしてしまう。

 

 

 

 

 

 

 ……私はここまで必死に、何かを書き、理解しようと努めているけれど、何も書き残さない人たちがたくさんいることも当然知っている。

 

 

 

 一緒に住んでいる彼もそうだし、姉もそうだ。彼に至っては、「日記を書いたこともない」というので、(当然そういう人がいるのはわかっているのだけれど、それでも)本当にびっくりしてしまう。そして、惚れ惚れもする。なんて強いんだろう、と思うのだ。

 

 

 

 昔から疑問だった。「何も書き残さない(あるいは、いちいち友人に話したりしない)人は、どうやって物事を処理するのだろう?」と。もやもやとした考えを、彼らはどうするのだろう。どうやって処理し、咀嚼するのだろう。

 

 

 

 あまりに自分と違うので、想像することさえ難しいのだけれど、ひとつわかるのは「きっとタフなのだろう」ということだ。日々の出来事をひとつひとつ記録しなくとも、自分の中でしっかり咀嚼して、味わうことができる。出来事を1人で抱えることもできる大きな入れ物のようなものがあり、言語化できない“もやもや”をそのままにしておく強さもあるのではないだろうか、と。

 

 

 

 もやもやしたものを、もやもやとした形のままにしておけるのは強さだ。白か黒に切り分けたり、自分が理解できる形にしたりしなければ不安だというのは、ある意味の弱さのような気がしてしまう。

 

 

 

 しかし先日、姉にそんなことを話したら、「タフ?いや、違うよ」と言われてしまった。

 

 

 

「気持ちの棚卸し、してないよ。過ぎていくだけ」

 

 

 

 過ぎていくだけ? もやもやのまま味わうわけでもなく、ただ過ぎるだけ?

 

 

 

「棚卸ししないなら、それがどういうものだったか、認識できないんじゃない?」

「できない」

 

 

 

「ひとつひとつを忘れちゃわない?」

「忘れちゃうよ」

 

 

 

「……」

「でも別にいいじゃん。なくなるわけじゃないんだし」

 

 

 

 

 

 思わず、まばたきを何度もしてしまった。

 

 

 

「タフ」と思っていたけれど、この考え方は、タフのさらに向こう側のような気がした。書き残したり記録したり確認したりしなくても、けれど確かに「在る(在った)」という感覚を持って生きられるなんて。

 

 

 

「逆に、どうして書くの?」

 

 

 

「……忘れたくないから」

 

 

 

「どうして?」

 

 

 

「……わからない」

 

 

 

 忘れるも、忘れないも、コントロールなんてできない。忘れたいことは忘れられないし、忘れたくないことも忘れてしまう。わかっている。でも、それでも。それでも何かを忘れないようにして、一生懸命に筆をとっている。必死に、短い人生の中で、大事にしたいと思うものをとにかくたくさんかき集めようとしている。こんな感覚のひとがどれほどいるのかはわからない。けれど、きっと文章を一生懸命に書いている人には共通する思いがあるのではないだろうか。

 

 

 

 出来事を1人で抱えておけるほどの大きな入れ物がなく、だからこぼれて落ちていくものを文字にして物理的に保存しておく。些細なことでも、書き残したい。見たものを忘れたくない。誰かと共有したい。たとえそれが、いずれ忘れてしまうことだとしても。

 

 

 

 わかっていても、もっと所有したいと思うのはどうしてだろう。もしかしたらそれほどまでに、今が愛おしいのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 こんこんと湧き出るエメラルドブルーの池は、この瞬間もあそこにきっとあるだろう。こんこんと湧いては、流れ出ている。誰の手にもおさまらなくても、あの場所でたしかに湧き続けている。わかっていてもわたしは美しい記憶に両手を伸ばし、すくい上げてはこぼれていく感覚を未だ味わっている。

 

 

 

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