50万部の人気シリーズ『化学探偵 Mr.キュリー』の小説家、喜多喜久さんの新刊『「はじめまして」を3000回』。謎めいたタイトルですが、これが、ぐいぐい読まされてしまうのです。
モテないリケイ男子のリアルにハマり、
その前に現れた、天使のような美少女にハマってください。
ワクワクのラブ・ミステリー、ためしよみ第2弾。

イラスト:かとうれい

2838+1──【2017・3・28(火)】

 春休みに入ってから四日目。近所の公園の桜が満開を迎えようとしているその日も、俺は自宅の二階の自室でパソコンのモニターを眺めていた。

 自分が組み立てたコンピューター・プログラムをじっくり見直し、問題がないことを確認する。

 ──よし、今度こそ……。

 期待を込めてエンターキーを押し込む。すると、数字がいくつか表示されたあと、エラーの発生を知らせるメッセージがこれでもかと言わんばかりに画面を埋め尽くした。

  ……まただ。

 俺はため息をつき、椅子のヘッドレストに頭を載せた。

 壁の掛け時計は午後三時になろうとしている。朝の九時から、一時間の昼食休憩を挟んで合計五時間。ずーっとプログラムの改良に挑んでいたのに、エラーが頻発するばかりでちっともうまくいかない。

 天井をしばらく眺めていると、湯を沸かす時に鍋の底から浮かんでくる気泡のように、ぽこぽことアルファベットや数字がまぶたの裏に現れだした。さんざんモニターを見続けてきたせいだ。

 まったく、忌々しいやつらめ。俺は心の中で毒づくと、そいつらを追い払うように勢いよく椅子から立ち上がった。

 小腹がすいた。頭脳労働で脳が大量の糖分を消費したらしい。なんでもいいから腹に入れておこう。

 部屋を出て一階に降りると、台所に母がいた。熱心にコンロ回りの掃除をしている。

「あのさ、何か食べるものない?」

「それならちょうどいいのがあるよ。お父さんが出張で買ってきたおみやげ」

 見ると、机の上に明るい緑の袋が置いてある。沖縄限定、シークヮーサー味のソフトキャンディだった。

「お父さん、恭介に食べてもらいたがってたよ」

「ふーん。じゃ、とりあえず味見するよ」

 俺は個包装になっているソフトキャンディを取り出し、ぽいと口に放り込んだ。

 舌に載せるとすぐに柔らかくなり、ミルクの甘味と柑橘の酸味が広がっていった。ちゃんと本物の果汁を使っているのか、なかなか美味い。

 しばらくぐにぐにとそれを噛んでいると、口の中で何かが「メロッ」と音を立てた。 ──あ、やばい。

 俺は咀嚼を止め、噛みかけのソフトキャンディを手のひらに出した。薄緑色の塊の中に、一センチにも満たない白い欠片が見えた。

 舌先で右の奥歯を確認する。……ない。奥歯の穴を埋めていたはずの詰め物が消えていた。「……やっちゃったな」と俺は嘆息した。

「ん? どうしたの」

「これ食べてたら、歯の詰め物が取れた」

「あらま、そりゃ大変」掃除の手を止め、母がこちらを向く。「お金出してあげるから、歯医者に行ってきなさい」

「歯医者……」

 自然と、自分の眉間にしわが寄るのが分かった。

 穏やかなクラシックと、殺伐としたドリルの音が共存する待合室。妙に消毒液臭い廊下。にこにこと偽りの笑みを浮かべる歯科衛生士たち。巨大ロボットの操縦席を思わせる、ごてごてした椅子。そして、拷問としか思えない、長い長い治療時間……。それらを思い起こすだけで息苦しくなる。

 俺は人より痛みに敏感だ。情けない話だが、足の小指をドアの角にぶつけたらたっぷり三分くらいは悶絶するし、もうすぐ高校二年になるというのに注射のたびにちょっと涙ぐんでしまう。もしかすると、歯科医院はこの世で一番嫌いな場所かもしれない。

「嫌なのは分かるけど、先延ばしにしたら余計に辛くなるだけだからね」

 母は人生の格言めいたことを口にすると、財布から一万円札を出し、無理やり俺の手のひらにねじ込んだ。

「……分かってるよ」

「保険証、ちゃんと持って行きなさいよ。あ、あとお釣りは全部返してね」

 台所を出る俺に、母が非情な一言を投げ掛けてくる。「はいはい」と適当に返事をして、俺は着替えのために自分の部屋に向かった。

 今日は、本当に何もかもうまくいかない。プログラムは停滞しっぱなしだし、歯の詰め物は取れるし、こうして歯医者に行かなきゃならない。

 階段を踏みしめながら、もうこれ以上悪いことが起きませんように、と俺は祈った。

 外出の予定がなかったので気にも留めていなかったが、空は目一杯晴れていた。満場一致の快晴だ。見渡す限りの爽やかなブルーで満たされている。

 風は柔らかで温かく、日差しはこの上なく心地いい。インドア派の中のインドア派を自称するこの俺でさえ、そこらの公園のベンチで桜を愛でつつぼんやりしても悪くないかな、と思うくらいの外出日和だ。

 歯の治療は大嫌いだが、虫歯のない丈夫な歯を持っているわけでもないので、掛かりつけの歯科医院というものがある。家から自転車で七分ほど。俺は何年振りかにその歯科医院にやってきた。白い立方体のブロックをどーんと置いたような、無機質な外観は相変わらずだ。

 短い階段を上がり、出入口の前に立つ。これから待っている痛みを思うと、恥ずかしながら足がすくみそうになる。できることなら引き返したい。しかし、財布の中の一万円札がそれを許してはくれないだろう。福沢諭吉が樋口一葉と野口英世に変わらない限り、家の敷居を跨げそうにはない。

 俺は覚悟を決めて、自動ドアの「軽く押してください」ボタンに拳を押し付けた。

 入ってすぐのところが待合室になっている。オレンジがかった暖色系の照明が使われていて、俺のイメージ通り、聴いたことのあるようなないような、微妙なチョイスのクラシックが流れていた。

 待合室のソファーには数人が掛けていた。中年の女性に、白髪の老人。大学生らしき若い男もいる。雑誌を読んでいたり、スマートフォンをいじっていたり、ただじっと手のひらを見つめていたり……。示し合わせたかのように、そこにいる全員が黙り込んでいた。まるで刑の執行を待つ受刑者だ。

 心を無にして、スリッパに履き替えて受付に向かう。

 予約していなかったので、二十分ほど待つことになった。木製のマガジンラックには、グルメガイドや週刊誌、絵本などが並んでいる。大して興味はなかったが、地元の料理店を特集した雑誌を持ってソファーに座った。

 それを適当にめくりながら、俺はプログラムのことを考えた。どうすれば、エラーを減らすことができるだろう。とにかくそこをクリアしなければならない。

 俺がいま取り組んでいるのは、機械学習という手法だ。コンピューターに問題の解き方を学習させ、任意の問いに対して答えを出せるような仕組みを作るのだ。

 例えば、『身長一八〇センチ、体重七〇キロ、静岡県出身の人物はプロ野球選手になれるか?』という問いを解く場合。まず、実際の選手たちの身長、体重、出身地を元に「学習」を行い、「プロ野球選手になりやすい条件」を導き出しておく。そして、その条件に合致するかどうかで判別を行い、答えを出すのだ。

 念のために言っておくが、これは別に学校の課題というわけではない。俺の趣味だ。むしろ、趣味だからこそ真剣になれるとも言える。

 機械学習を実行するには、プログラムを作る必要がある。プログラムというのは、「こうしてほしい」という指令を順番に並べたものだ。一を五倍して、それから三を足して、次は二で割って……みたいに、やるべきことが延々と書かれている。

 正しく命令が並んでいれば、エンターキーを押して計算を開始するだけで結果が出るはずなのだが、俺がやるとエラーになってしまう。書いたプログラムのどこかに問題があるからだ。

 エラーメッセージには、何行目のどこどこがよくないですよ、ということが書かれている。しかし、表示されるのは場所だけで、直し方までは教えてくれない。だから、自分で調べたり考えたりして、問題のある箇所を改善しなければならない。その方法が分からずに、俺は朝から苦しんでいるというわけだ。

 そんな風に物思いに耽っていたので、「──ねえ」と声を掛けられた時、それが自分に向けられているものだと気づかなかった。

「ねえ、ちょっと」

 少し苛立ったような声に違和感を覚え、俺は顔を上げた。

 すぐ目の前に、女子が立っていた。赤地に黒のラインが入ったボーダーシャツと濃い青色のジーンズという格好だ。

 肩に掛かるくらいの黒髪に、こちらを遠慮なく見つめてくる大きな目。桜色の唇の間から見える、白い歯。爽やかな笑みを浮かべている彼女の顔を、俺は知っていた。高校の同級生だ。

 ただ、学校で何度か見掛けたことはあったが、一年の時はクラスが違ったので、会話を交わしたことはなかったし、彼女の名前も知らなかった。

 だから俺は、「ああ……」と曖昧な返事をすることしかできなかった。

 すると彼女は、何の断りもなく俺の隣に腰を下ろした。ソファーは別に込み合っていなかったにもかかわらず、彼女と俺の太ももは微妙に接触していた。

「北原くんも、ここに通ってるんだね」

「……まあ、家から近いから」

「そうなんだ。私も私も。今日はどうしたの?」

「奥歯の詰め物が外れたから、仕方なくな」

「それは災難だったね。私は歯のクリーニングに来たんだ。子供の頃から一本も虫歯がないのが自慢でね、せっかくだからずっと継続していこうって思って、定期的に歯を綺麗にしてるんだ」

「……ふーん、偉いな」

 俺が適当に答えると、彼女が急に黙り込んだ。

 隣を窺うと、彼女は俺の方をじっと見ていた。目が大きいので、瞳に込められた感情がダイレクトに伝わってくる。彼女は明らかに怒っていた。

「もしかして、私のこと、誰か分からない?」

 俺は開いた雑誌に目を落とした。美味そうなハンバーグが載っていた。

「……見覚えはあるんだけどな、名前まではちょっと」

「私は北原くんのことを知ってるんだけどなあ。下の名前も分かるよ。恭介、だよね」

「ああ、そうだよ。博識だな」

「うーん……いや、違うなあ。今のは無しにしよう」

 彼女は唐突に立ち上がると、俺の正面に立った。

「……何を無しにするって?」

「私が君の名前を知ってることはいったん忘れてもらって、初対面ってことで自己紹介し合おうよ。対等な感じで」

 いきなりの申し出に、俺は「はあ」と気の抜けた相槌を打った。なんというか、アメリカ的というか、洋画的というか、とにかく日本人っぽくない社交性だな、と思った。

 ふと気づくと、待合室から人影が消えていた。俺の大嫌いなキーンというドリルの音があちこちから聞こえてくるから、それぞれ治療が始まったのだろう。何かの用事で席を外したらしく、受付のお姉さんまでいなくなっている。待合室にいるのは、俺と彼女だけだった。

 他人の目がないなら、不可解ではあるが理不尽ではないリクエストに応えてもいいだろう。その程度のサービス精神は持ち合わせている。

 俺は立ち上がり、「別にいいよ」と言った。

「じゃあ、はじめまして。牧野佑那です」

 にかっ、と音が聞こえてきそうな笑顔と共に、彼女が右手を差し出す。俺は思わず、その白くて細い指を凝視してしまう。まさか、握手を要求してくるとは。

「あんた、帰国子女?」

「ううん。東京生まれの東京育ちだよ。海外旅行どころか、パスポートも持ってないよ」牧野は笑顔のままでそう言って、差し出した右手をひらひらと左右に揺らした。「疲れてきたから、早くお願いします」

「……じゃあ」

 ジーンズで手のひらを拭い、俺は彼女と握手を交わした。その手は、柔らかくて生温かくて、俺はいつか撫でた仔猫の背中を思い出した。

 手を離そうとしたら、牧野は逆にぎゅっと俺の手を握って、「あれ、まだ名前を伺ってませんけど?」といたずらっぽく笑った。

 俺の名前を知っているくせに、と思ったし、なんだよこの茶番は、とも思った。

 しかし、さっきのくだりは忘れるという約束だ。俺は目を逸らしながら、「はじめまして、北原恭介です」と律儀に名乗ってみせた。

「北原恭介くん、ね。うん、覚えた」

 手をほどき、牧野が自分のこめかみを指先でつつく。

 やれやれ、どこまでこの芝居に付き合わなきゃいけないんだろう。そう思ってため息をついたら、「そんなに冷たくしないでよ」と牧野が口を尖らせた。「四月から同じクラスになるんだしさあ」

「……そうなのか?」

「そうだよ」と、牧野が大きく頷く。

「四月からのクラス名簿を盗み見たのか?」

「ぶー、残念、違います」

 牧野が両手でバツマークを作ったところで、受付のお姉さんが待合室に戻ってきた。

「北原さん、準備ができましたのでこちらへどうぞ」

「あ、はい」

 お姉さんに名前を呼ばれて初めて、俺は奥歯の穴のことを思い出した。そうだ。すっかり牧野のペースに乗せられてしまったが、俺は歯を治しにここに来たのだ。

「よかったね、すぐに診てもらえて。私はもう支払いまで済ませたから、先に帰るね。ちょっと痛むと思うけど、我慢だよ、我慢」

 牧野はそう言うと、手を振りながら笑顔で歯科医院をあとにした。

 すりガラスの自動ドアが閉まるのを見届け、俺は診察室へと向かった。

 一つ、疑問が頭の中に残されていた。なぜ、牧野はあんなに自信たっぷりに、俺たちが同じクラスになると断言したのだろう?

 その理由を考えていたおかげで、歯を削って新しく詰め物をする間も、俺は痛みを恐れずに済んだ。

(『「はじめまして」を3000回』/喜多喜久著 より)

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喜多喜久『「はじめまして」を3000回』

高校二年の北原恭介は、友達の少ないリケイ男子。そんな恭介が、クラスの人気者・牧野佑那から生まれて初めての「告白」をされた。「昨日の夜、北原君に告白する夢を見たから」「予知が外れると、不幸が襲い掛かるの」冗談みたいなことを言って、ぐいぐい恭介の生活に入り込んでくる奔放な美少女。恭介の頑なな“リケイのメンタル”が次第に揺らぎ始め、ついに想いが“本当の恋”へと変わろうとしていた、そのとき…。恭介は、笑顔を絶やさなかった彼女が、「ある重大な秘密」をずっと抱えていたことを知る―。
(カバーイラスト:かとうれい)