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 5月には母の日、6月には父の日があった。女性のお母さんと男性のお父さん、そしてその二人から生まれた子どもというのが、私たちがイメージする家族ではないだろうか。

 小学校に入る前の私は、やけに哲学的な子どもで、あまりお友達もいなかったせいか、日々、瞑想にふけっていた。その頃の私が挑んだのが「男のお母さん」問題だった。保育園に迎えに来るのは女の人ばかりなのだが、なぜかクラスの佳奈ちゃんだけは男の人がお迎えに来る。保育園の先生にその理由を聞いても、「そうねぇ、佳奈ちゃんのお家のことだから……」と答えをはぐらかされる。なんでよぉ、なんでなのよぉ、「お迎えはお母さん」じゃないわけ? 父子家庭なのかどうかといった複雑な現実について、及ぼすべき想像力を持ち合わせていなかった当時の私は、ある日の瞑想中に、突然、閃いた!!

「そうだ!! お父さんとお母さんっていうのは、男とか女とかとは関係ない役割の名前なんだ。つまり、保育園に迎えに来る役割なのがお母さん、その時間も会社で働いている役割がお父さん。お母さんに女の人が多いのは何かの偶然で、佳奈ちゃん家は男のお母さん」

 こうやって保育園のお迎えを「お母さん」の役割によって、性別と無関係に定義すれば、佳奈ちゃんのお家も含めて包括的に説明できるではないか。狂喜した私は、早速、お昼寝の時間に添い寝してくれる保育士さんにこの理論を一生懸命説明しようとした。

 結局、聞いてもらえなくて、おしゃべりばかりして寝ない子として、別室に連れていかれてしまったけど。

 

女のお父さんはありえないのか?

 さて、微妙にめんどくさい保育園児だった私の哲学はどうでもいいとして、男のお母さんとか女のお父さんがありえないのかは、これまた微妙になりつつある。

 当然のことだが、法律上、母と父は区別される。簡単な言い方をすれば、子どもを産んだのがお母さん、そしてそのお母さんと結婚しているのがお父さんというのが原則になる。つまり、女の人と男の人で、親になるためのルールは異なっている。

 ところが、このルールを混乱させる事態が生じる。「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」をご存じだろうか。2003年に議員立法によってできたもので、「生物学的には性別が明らかであるにもかかわらず、心理的にはそれとは別の性別……であるとの持続的な確信を持」っている人の中でも、特に体の性別を自分の心の性別に適合させる手術を経た個人について、一定の厳格な条件のもと、戸籍上の性別を変え、その後は変更後の性別に従って生きることを許している。つまり、戸籍上、女として生まれたけど、私はずっと男って人が手術をして性別をした場合には、妻を娶(めと)れるってこと。

 ここまでははっきりと書いてあったのだけど、この後が、この法律は曖昧だった。結婚できるのは分かったけど、子どもが生まれたらどうなるのよ? まぁ、議員立法というのは出来が悪いんでしょうよ、きっと。

 具体的な問題としては、性別変更をして男になったAさんが、ある女性と結婚して、その女性が産んだ子どもを新宿区の区役所に届け出るときに、母の欄に妻を、父の欄に自分の名前を書いたこと。Aさんと子どもとの間に血縁関係がないと判断され、出生届を拒まれたのだ。あのね、性適合手術をしても生殖能力まで変えられるわけはないから、その子は、確実にAさんと血縁関係はないわけ。要するに、妻が精子提供を受けて生まれた子というわけですな。そして、まぁ、精子提供を受けて生まれた子どもなんて、日本にもたくさんいるんだけど、出生届を出すときに、「私の子として届け出るんですけど、実は、血はつながってないんですけどね」なんていちいち係官に言わないし、係官もそんな不躾なこと聞かないしで、ノータッチになっているわけです。ですが、性同一性障害の場合には、戸籍を見ただけで分かってしまうんですな。だって、性別を変更してますって戸籍に書いてあるんだもん。ということは、「父親欄のAさんと子どもとの間には血縁関係がないな」ってことも、係官に分かっちゃう。

 そして、そのときの新宿区は、この出生届は正しくないからと受け取ることを拒んだ。

 結局、これは、最高裁まで争われて、結論としてはAさん側が勝利した。性別を変えることが認められているんだから、もともと女で血縁関係がないとかうじゃうじゃ言うなと。子どもを産んだ女性がお母さんなら、その女性と結婚しているAさんはお父さんというルールの適用も認められるべきだって。

 

お父さんルールの背後にあるのは?

 さて、ここからが問題です。

 では、「お父さん」とはいったいなんなのでしょうか。

 なんとなく、私たちの感覚として、子どもを産んだ女性は、それは代理母とか例外的な場合は別として、明らかに子どもと血がつながっているでしょと。それで、その女性と結婚している男性は、うん、これも子どもと血がつながっているはずでしょと。(だって、そうじゃん、そうじゃなかったらまずいじゃん、ちょっと愛憎系のメロドラマっぽくなっちゃうじゃん。)ということで、このお父さん、お母さんルールの背後に「血縁」関係を見ている。

 ただ、最高裁という最大の権威が、血がつながっていないことが明らかな場合にも、お父さんルールの適用を認めたわけだから、「果たして、『お父さん』ってなんなの?」というのが問題になる。

 この疑問に大々的にぶつかったのがアメリカだ。そう、1980年代のゲイビーブームと言われた時期に、特にレズビアンカップルが盛んに子育てを始めた。ところが、精子バンク買ってきた精子によって生まれた多くの子どもたちは、一方とは血がつながっていたけど、他方とは血のつながりがなかった。それでも、生まれたときから「ママ」と「マミー」として育ててきたわけ。なのに、カップルの中が微妙になっていざ別れるってなったときに、事実上、最も近しい関係にある「マミー」が、血がつながらないばかりに、法律上は「赤の他人」ってなっちゃって、子どもと永遠に引き裂かれるっていう現実が、多くの人に衝撃を与えたのである。

 そこで、アメリカの裁判所は、子どもを産んだ一方が親ならば、その親と結婚しているもう一方も親だという、男女のカップルに適用されるルールを、女同士にも適用することにした。今では、アメリカの3分の1の州がこの拡張適用を認めている。

 で、ここで問題になるのが「親」ってなによ?ということだろう。思い出してほしい。産んだ女性と結婚している夫を親とするルールの背景にあるのは、この男は生まれてきた子どもと血がつながっているはず(というか、血がつながっているべき??)だという議論だった。それが、女同士のカップルの場合には必ずしも通じない。なら、血のつながり以外で親をどう説明したらいいわけ?

 アメリカの学者はこれを説明しようと躍起になった。血縁以外に、親になる意思や、親としての機能を評価して親を定義しようという学説が、盛んに提唱されることになる。だが、ある/なしがはっきりしている血縁に比べて、意思も機能も曖昧さが残る。親として機能している人なんて、おばあちゃんとか学校の先生とかも入れると、何人も出てくる可能性もある。そこで、もともと子どもを産んだ女性が、子どもを独占する権利を持っているという、古典的な説明に戻る人が登場した。血縁以外で親を説明しようとして、血縁に回帰するという逆説現象である。そうなんだって。もともと子どもってお母さんが独占できるんだって。だけど、自分一人だと産前産後とか働けないし大変じゃない? かつ、精神的にもえらい不安定になるって言うじゃない? 産前産後だけじゃなくて、子どもを育てるってとても大変なことで、やっぱり相談したり、仕事をやりくりしたり、経済的・精神的な援助を受けられるパートナーのもとで、子どもを育てるほうが安定するものなのかもしれない。

 だから、子どもを独占できるはずのお母さんは、一緒に子育てをしたいと思える人を見つけて、その人に子どもに関する権利の一部をあげるんだって。「この子はあなたの子どもでもあるのよ。だから、あなにもこの子に愛情を注いだり、教育について考えたりする権利があるの」って。その代わりに「だから、お仕事頑張って、私たちが安心して暮らせるように経済的に安定させてくださいな」ってことなんだって。

 この議論によれば、「第一の親」はお母さんということにはなれど、「第二の親」は性別なんか関係ないのだ。つまり、お母さんとの間に信頼関係があって、経済的・精神的援助を与えられればいいわけ。

 つまり、第一の親は分娩で、第二の親は第一の親との関係性で定義する。ちょっと学術的な言い方ですが、ご理解いただけましたでしょうか?

 私が、昔、夢想した「お父さん」「お母さん」は、「役割」なのか「性別」なのか議論は、あの頃の保育士さんのウケは極めて悪かったが、多様なセクシャリティが問題となる今を先どりしていたのかもしれない、と友達がいなかった保育園時代をちょっと理論的に慰める日々(笑)。

 

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