1429年、ジャンヌ・ダルクは神の声を聞いて救国の戦いに参加した。だがその神秘的体験は側頭葉てんかんの仕業ではなかったか? 1865年の南北戦争終結時、北軍の冷酷なグラント将軍が南軍に寛大だったのには片頭痛が関係していた?
 世界の歴史を大きく変えたリーダー変節と、その元凶となった脳の病を、脳神経内科専門医の著者が世界の論文や文献をもとに解説した『世界史を動かした脳の病気 偉人たちの脳神経内科』(小長谷正明氏著・幻冬舎新書)。発売即重版となる大反響です。
 今回はその中から、日本への原爆投下に影響を及ぼした、アメリカ大統領の脳の病を紹介します。高血圧というとありふれた病気のようですが、実は脳にダメージを与える恐ろしい病なのです。

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下肢のマヒを抱えつつ、大統領に当選

 フランクリン・D・ルーズヴェルトは1882年にニューヨーク州の裕福な家庭に生まれて政治家を志し、第一次世界大戦時には若くして海軍次官になった。戦後、ポリオ(小児マヒ)に罹患して下肢がマヒしてしまったが、療養後は精力的に活動し、1928年にはニューヨーク州知事に当選している。

 1929年10月にウォール街の株価大暴落から起こった大恐慌に対して、彼は“救済・回復・改革”をスローガンとするニュー・ディール(新規巻き直し)政策を打ち出して、1932年の大統領選挙に勝利した。そして、崩壊状態にあった農業政策の要として、44歳の若手農学者ヘンリー・A・ウォーレスを農務長官に迎え入れた。

 1939年9月、ナチス・ドイツのポーランド侵攻によりヨーロッパで大戦が勃発した。反ナチスの立場のルーズヴェルト政権は戦争に介入したかったが、アメリカの世論は参戦には否定的であり、関与の仕方が問題となってきた。

 が、1941年12月7日(アメリカ時間)に、日本海軍がハワイ真珠湾の軍港を奇襲攻撃したことで、アメリカ国論は一致し、迷うことなく第二次世界大戦に突入した。ルーズヴェルトが日本を挑発してそのように仕向けたとする説もあるが、ここでは議論しない。ともあれ、大統領は日独伊の枢軸国に対する戦争を、やっと表立って行えるようになった。

政治家に多いA型性格は脳の血管障害を起こしやすい

 議会で「リメンバー・パールハーバー」と唱えて枢軸国側に宣戦布告したルーズヴェルト大統領だが、チャーチルやスターリンに比べて、戦争中の彼の活躍ぶりはあまり知られていない。1943年の連合国首脳によるカイロ会談やテヘラン会談の折には、やつれ気味だとか、ひいた風邪が良くならないなど、健康が損なわれてきている。

 もともとがエネルギッシュで活動的なA型性格である。A型性格というのは血液型に関連するものではない。1950年代のアメリカで、生命保険会社が性格と、心臓の血管障害との関係を調査し、心筋梗塞や狭心症などは、上昇志向が強く、せっかちで攻撃性が強い人での発症が多いことが分かった。そして、このような人は、脳の血管障害も起こしやすい。これをA型性格という。

 これに対して、じっくりと仕事をし、人生をエンジョイして、勝つことにこだわらず、ストレスをあまり感じないタイプはB型性格と呼ばれており、脳や心臓の血管障害は少ない。クヨクヨする心配性はC型で、ガンになりやすいという説もある。ルーズヴェルトに限らず、政治家にはA型性格が多い。

 また、ルーズヴェルトは太い葉巻を毎日20本もくゆらすようなヘビー・スモーカーでもあり、動脈硬化症気味であったのはまちがいない。真珠湾攻撃の頃の血圧は188/105mmHgと記録されている。すでに立派な高血圧症である。

「高血圧は無理に下げない」が当時の考え

 3月下旬、とうとう大統領は体調を崩し、息切れとチアノーゼでワシントン郊外の海軍病院に入院した。186/107mmHgの高血圧とうっ血性心不全、気管支炎であり、すぐに治療がなされた。心不全には強心剤のジギタリス、気管支拡張作用のあるアミノフィリンが使われ、気管支炎に悪いと、主治医から節煙を命ぜられて、葉巻は1日20本から10本に減らされた。当時はタバコの健康被害に対する認識は今ほど強くなかった。

 高血圧への対処法は安静と精神安定剤だけであり、降圧剤はまだなかった。それどころか、「組織に必要な血液を送るために血圧が高くなっているのだから、無理に下げない方がいい」という考え方も医学界には存在していた。

 この間にも、次期政権を決める選挙戦が行われていた。傍目にも健康が優れないルーズヴェルトが再選されても、任期中に倒れる可能性が考えられ、その時は昇格して大統領に就任することになる副大統領候補が、民主党の予備選挙戦の焦点であった。

 現職の副大統領であるウォーレスは実績と知名度、大統領の個人的好意から再選はほぼ確実だと思われ、大統領自身も彼への支持を口にした。ところが、「ウォーレスはソビエト連邦や中国共産党寄りの急進的左翼だ」という反対論が起こり、大統領への影響力が強かった夫人のエレノアも反対論に同調し、結局、ミズーリ州選出の上院議員ハリー・S・トルーマンが副大統領候補に決まった。

 8月になってルーズヴェルト大統領は太平洋方面から帰ってきたが、演説中に狭心症の痛みを起こしている。トルーマンによると、この頃の大統領は紅茶にクリームを入れる時に、カップではなく受け皿の方に入れていたという。手は震え、話すのも困難だったようだ。精神的な混乱は見られないが、肉体的にはぼろぼろだった。

 秋には血圧は260/150mmHgに上がった。翌1945年1月20日には4期目の大統領就任式があったが、この時も狭心痛を訴え、やつれた姿は聴衆に衝撃と不安感を与えた。

ぼろぼろな体に応えた真冬のソ連での会談

 就任式直後の1月下旬には、戦後処理を巡るスターリンとチャーチルとの会談のために、ソビエト連邦のクリミア半島にあるヤルタに向かった。巡洋艦と輸送機を乗り継いでソ連領に入ったが、そこからは真冬の最中に悪路の行程で、西側首脳に対するスターリンの悪意を含んだもてなしだという説もある。

 2月4日から1週間にわたるヤルタ会談では、ドイツが降伏した後2ヶ月または3ヶ月経った時点でソ連が日本との戦いに加わること、東ヨーロッパのソ連の支配下入りや、日ソ中立条約の破棄と南樺太・千島列島のソ連併合など、ソ連に有利な密約がなされた。西側の総帥であるべきルーズヴェルトが全く精彩を欠き、米英がスターリンに押し切られる結果となったのだ。チャーチルの主治医だったモラン男爵は回想録に書いている(*1)

「大統領は年を取り、痩せてやつれて見えた。肩にケープをかけ、しなびた様子で、口をポカンと開け、まっすぐ前を見て座っていた。何も分かっていないかのようだ。みんなが彼の様子にショックを受けた。(中略)誰が見ても、大統領の体はガタガタだった

 この時の彼の血圧は300/170mmHgであった。

 その後の冷戦時代、ソ連の激しい攻勢にさらされたアメリカでは、ヤルタ会談でアメリカの権益を主張できなかったルーズヴェルトは史上最低の大統領だと評価する人もいた。

 ヤルタ会談から2ヶ月後の4月12日、ジョージア州ウォームスプリングズの別荘で静養中のルーズヴェルト大統領は「後頭部に激痛がする」と言った直後に意識を喪失し、全身けいれんを起こした。血圧は300/190mmHgで、大量の脳内出血と診断され、約2時間後に死亡が確認された。63歳だった。

高血圧性脳出血

 高血圧が続くと、圧力に耐えるために血管の壁は硬くなる。いわゆる動脈硬化で、結果的に脳に障害をきたし、明らかな手足のマヒは示さなくても、モラン男爵が観察したルーズヴェルトのように、集中力を欠いた認知症の症状が出てくる。

 彼は長年にわたって高血圧症を患っており、大統領第2期がスタートした1937年にはすでに169/98mmHgが記録されているし、1945年になってからは最高血圧が絶えず200mmHgを超えていた。

 だから、ルーズヴェルト大統領の時代に降圧剤があったら、ヤルタでは負けなかったのにと悔やむ論文が、戦後しばらくしてからアメリカの医学雑誌に載っていた。本格的な降圧剤であるサイアザイド系の薬が使われるようになったのは、1950年代後半になってからである。

 高血圧症では、動脈硬化などで脆くなった脳の血管が破れて脳出血を起こしやすいのはいうまでもない。われわれの体内での血の巡りは、心臓から出た太い大動脈が次々と枝分かれして細い動脈となり、ついには毛細血管として組織の細胞に酸素や養分を運び、炭酸ガスや老廃物を集めて細い静脈となり、やがて太い大静脈となって心臓に戻ってくるようになっている。

 体の多くの臓器や組織では、動脈は木の枝のようにゆるい角度でスムースに枝分かれしていくが、脳の血管は構造が複雑で、しばしば急角度あるいは直角に分岐している。強い圧力がかかっている血流の急激な方向転換は、その圧を受ける部分の血管の内壁を傷つけ、弱くなった部分がバルーンのように膨らみ、動脈瘤ができてくる。

現代では脳内出血・脳梗塞をこうして治す

 脳底部に大きな動脈瘤ができれば、くも膜下出血の原因になるし、脳の組織内にできた小さなサイズの動脈瘤が破裂すると、脳内出血となる。そして、出血量が多ければ、脳の広い部分で組織を破壊するだけでなく、脳を圧迫して脳幹部の呼吸中枢が侵されて死に至る。

 なお、現代では脳内出血の時、出血した部分が脳の表面に近いなど、手術がしやすい部位ならば、そこに管をさして血の塊を吸い出す。それができない時は、止血剤を使い、また、脳圧が高くならないように利尿剤などを使う。

 出血ではなく、脳の血管がつまってしまう脳梗塞の時は、発症後4時間半以内の早期ならば血栓を溶かす治療薬を使うが、時期が遅れると、かえって梗塞で弱くなった部分に出血することがあるので、組織保護と脳圧対策などをして、発作の急性期を乗り切ることになる。

 脳出血、脳梗塞のいずれも、動脈硬化や高血圧、糖尿病などの生活習慣病がもとになるので、日頃からこれらの治療をきちんとすることが大切である。

歴史のイフ

 1945年7月下旬、ベルリン郊外ポツダムのツェツィーリエンホーフ宮殿で連合国軍首脳会議が行われ、対日降伏勧告、いわゆるポツダム宣言が出された。アメリカからは、副大統領から昇格したトルーマンが大統領として出席し、その最中にニューメキシコ州での核実験成功の電報を受けた。すでに日本は海上封鎖による食料欠乏と空襲による都市破壊で死に体になっており、降伏は時間の問題であった。

 日本がポツダム宣言受諾に向けて意思統一を図りつつある時、帰国したトルーマンは広島と長崎に原子爆弾投下を命じた。戦後の国際情勢を見据えて、政治的にも軍事的にも台頭しつつあるソ連への、威嚇と牽制を意図しての決断だ。

 ここで、歴史のイフだが、ルーズヴェルト大統領第4期の副大統領がトルーマンではなく、ウォーレスのままでルーズヴェルトの死後に大統領に昇格していたら、どのような決断を下しただろうか?

 ソ連に好意的であった彼は、ソ連抑制を理由に原爆投下はしなかっただろうし、仮に日本に降伏を促すのであったなら、その時のアメリカ政府内にもあった案のような海上投下での示威行動をしただろう。どのみち、日本は継戦意欲を完全に失ったはずだ。そして、日本や世界のその後の歴史の流れは変わったにちがいない。しかし、それでどうなったかは分からない。

 トルーマンは、東欧で勢力を伸ばしベルリンを封鎖したソ連に強硬姿勢を取り、やがて両国は冷たい戦争と言われる、戦火こそ交えないが軍事的対立が先鋭化した状態になっていった。ウォーレスは、この流れに批判的であり、次の大統領選挙に出たが完敗した。

 ウォーレスと同様にルーズヴェルト政権下でニュー・ディール政策を推進した若手官僚たちの中には、占領下の東京の連合国軍総司令部の民政官となり、本国で果たせなかった急進的改革を日本で試みた人たちもいた。

*1─Lord Moran: Churchill, Taken from the diaries of Lord Moran. Houghton Mifflin Co., 1966

 

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小長谷正明『世界史を動かした脳の病気 偉人たちの脳神経内科』
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