ついに、「耳の聞こえない息子」のためにオーダーしたオルゴールができあがる月曜日になりました。はたして、店主はどんなオルゴールを出してくるのでしょうか……?

「泣ける」「感動する」と評判の、瀧羽麻子さんの小説『ありえないほどうるさいオルゴール店』より、第一話が、ついに涙のクライマックス!
 

よりみち (第三回)

 月曜日、悠人の教室が終わってから、美咲たちはいつものように運河沿いを歩きはじめた。
 廃線跡の緑地まで、入り組んだ路地を抜けていく道筋は何種類もある。あのオルゴール店の前は通らないように、美咲は道を選んだ。
 陽太の言うとおりだった。どうしてあんなものを買おうと思いついたのだろう。あの店員はきっと、できあがったオルゴールを悠人に渡し、聴いて下さいと自信ありげにうながすだろう。あるいは自ら鳴らしてみせるかもしれない。いずれにせよ、短い旋律が流れた後で、気に入ったかと問うに違いない。
 悠人には答えられない。今回ばかりは、美咲がかわりに答えるわけにもいかない。
 電話して注文をとりさげようかとも考えた。返品も可能なのだから、おそらく問題ないはずだ。でもよく考えたら、店名もわからなかった。引換証のようなものも渡されなかったし、こちらの名前や連絡先も聞かれていない。あのときはぼんやりしていて不審にも感じなかったけれど、おおらかというか、いいかげんというか、やっぱり変な店だ。さすがに無断ですっぽかすのは気がひけるので、また日をあらためて、美咲ひとりで出向くことにした。事情があって必要がなくなったと謝ろう。
 悠人は美咲に手をひかれるまま、ゆっくりと歩いている。時折首をめぐらせて、運河の上を飛びかうかもめや、通り過ぎる自転車を目で追っている。
 あの店のことを、悠人は忘れてくれているだろうか。美咲と同様、店を出た直後はいつになくぼうっとしていたし、翌日以降もオルゴールの話題にふれることはなかった。あのおもちゃを買ってもらったとも認識していないのかもしれない。その場では品物を受けとらず、代金すら払わなかったのだ。珍しい器械を少しばかり見学した、と受けとめた可能性もある。
 例によって、緑地には誰もいなかった。悠人が美咲の手を離し、とことこと線路に向かって歩いていく。
 芝生をつっきり、遊歩道の入口に立ったところまでは、いつもどおりだった。これもいつものとおり、いそいそと線路をたどりはじめるかと思いきや、美咲の予想を裏切って、悠人はぴたりと足をとめた。
「どうしたの?」
 美咲はつぶやいた。悠人は振り向かない。背後で声を出しているのだからあたりまえなのに、どういうわけか胸騒ぎがした。
「悠人」
 駆け寄って肩をたたこうとしたとき、どこからか声が聞こえた。
 歌声だった。美咲は首を伸ばし、線路の先に目をこらした。遠くのほうに人影が見えた。おとなと子ども、ふたりいる。
 母親と娘のようだった。つないだ手を前後にリズミカルに揺らし、こちらへ少しずつ近づいてくる。歌っているのは、美咲には聞き覚えのない、童謡ふうの単調な曲だった。母親の澄んだアルトにかぶせて、子どもがめちゃくちゃな音程で甲高い声を張りあげている。
 ゆったりした水色のワンピース姿の母親は、美咲よりもいくらか若いだろうか。娘のほうも、よく似た色とかたちのワンピースを着ている。背格好は悠人と変わらない。ふわふわと裾を揺らし、枕木を一歩一歩きちょうめんに踏んでいる。美咲たちの数メートル前まで来たところで、ふたりは最後の一音をながながとのばすと、ようやく口を閉じた。立ちつくしている見知らぬ親子連れに遠慮したわけではなくて、歌がちょうど終わったらしい。満足そうに目くばせをかわし、くすくす笑いあっている。
 女の子が遅いながらも足をとめそうにないので、美咲は悠人に両手をさしのべた。後ろから抱きあげようとしたのだった。このままではぶつかってしまう。
 美咲の指がふれるよりも一瞬早く、悠人は自分から線路の横によけて、道を譲った。
「こんにちは」
 すれ違いざまに、母親が快活に言った。やや舌足らずな発音で、娘も続けた。
「こんにちは」
 美咲は返事ができなかった。目礼するのがせいいっぱいだった。軽やかな足音を背中に聞きながら、膝を折って息子の顔をのぞきこむ。
「悠人、大丈夫?」
 悠人はうっすらと微笑んでいた。最近、たまに見せるようになった表情だ。
 かしこい子なのだ。あの女の子と自分の違いを、たぶん理解しているのだろう。幼児には似つかわしくない、おとなびた、達観したとも表現できるような笑みは、その事実を粛々と受けとめているしるしのように、美咲には映る。憤るでも悔しがるでもなく、そういうものだとあきらめているかのように。
 美咲は地面にひざまずき、悠人を抱きしめた。
「悠人」
 いろんなひとが、いろんなことを言う。
 悠人はいい子だ、問題ない、と教室の講師たちは言う。息子をほめてもらって、美咲もうれしくないわけではない。彼らには親子ともども本当に世話になって、感謝もしている。
 でも、ときどき叫び出したくなることがある。ひとの好さそうな年若い講師を、詰問しそうになる。なんの問題もない? 安心していい? あなたは本気でそう思うの?
 つらくてもいつかきっと報われる日がくる、と嫂は言う。子育てでさんざん苦闘してきた彼女が、善意で励ましてくれているのは美咲にもわかる。屈託なく母親に甘えている姪の姿は、かつての修羅場を知っているだけに、ほほえましくも感じる。
 でも、やっぱり胸が痛む。半狂乱でわが子とやりあう嫂を見て、わたしも将来こうなってしまったらどうしよう、とこっそり身震いしていた自分が恥ずかしい。あんなふうにひどいことを考えた罰を、今になって受けているのだろうか? だけど罰せられるべきなのは、悠人じゃなくてわたしだ。
 あんたのせいじゃない、と母は言う。そこは陽太も同意見だ。そんなに自分を責めるなと美咲を諭す。
 でも、耳が聞こえる子に産んであげられなかったのは、わたしなのだ。
「悠人、ごめんね」
 大丈夫だよと言いたい。お母さんがついているよと言いたい。ずっとそばにいて、あなたを守ってあげると言いたい。けれど、わたしの声は届かない。のどを嗄らして叫んでも、むだに空気を震わせるだけで、肝心の場所には永久に届かない。わたしの気持ちを、どうすればこの子に伝えられるだろう?
 美咲の胸におしつけられた悠人が、きゅうくつそうに体をよじった。
 美咲はあわてて腕をほどいた。深く息を吸い、ゆっくりと吐く。目頭がひどく熱くなっている。悠人は困ったように眉根を寄せて、美咲を見つめている。
 三度、深呼吸を繰り返し、やっと持ち直した。のどをふさいでいたかたまりを飲み下して、口角をひきあげる。
「お待たせ。行こうか」
 線路の上へ足を踏み出した美咲のスカートを、悠人がためらいがちにひっぱった。
「今日はもうやめとく? 帰ろうか?」
 美咲の問いに、悠人は首を横に振った。右手で小さな握りこぶしを作り、胸の前でくるくると回してみせる。
 覚えていたのか。
「わかった。取りにいこう」
 美咲が観念するまで、悠人は一心に手を動かし続けていた。


 店は先週と変わらず、ひっそりと静かだった。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」
 店員は美咲たちを覚えていたようで、にっこり笑った。奥のテーブルの前に、すでに椅子がふたつ出してある。
「どうぞ、おかけ下さい」
 愛想よくうながされ、美咲は悠人と並んで腰かけた。いつ来ると約束していたわけでもないのに、ずいぶん準備がいい。
「おふたりの足音が聞こえたので」
 美咲の内心を見透かしたかのように、店員が言った。
 これは彼流の冗談なのだろうか。前回見かけた耳の器具のことも頭をよぎり、美咲は反応に困ったが、彼はすまして続けた。
「もうじきコーヒーができます。お子さんには、ジュースを」
 言い終えるなり、背後でからんとベルが鳴った。
 店に入ってきたのは、白いエプロンをつけた、おかっぱ頭の若い娘だった。両手で持った銀色の盆に、真っ白なソーサーつきのカップがふたつと、黄色いジュースの入ったガラスのコップがひとつ、のっている。コーヒーのいい香りが漂ってくる。悠人も鼻をひくひくさせて、しずしずと近づいてくる彼女を目で追っている。
 彼女はテーブルの上に紙のナプキンとコースターを手際よく並べ、三人分の飲みものを置くと、さっと一礼して出ていった。
「いつもお向かいにお願いしてるんです。僕はどうも、こういうのは得意じゃないもので」
 それにしても、本当に準備がいい。まさか足音が実際に聞こえたわけではないだろうから、客が店に入っていくのが見えたらすぐに飲みものを用意して持ってくるように、あらかじめ頼んでおいたのだろうか。しかも、コーヒーの香りをかぐ限り、作り置きではなくきちんと淹れられたもののようだ。
 ひと口飲んで、それは確信に変わった。
「おいしい」
「でしょう。ここのコーヒーは絶品なんです」
 うれしそうに言ったわりに、店員は熱いコーヒーをじっくり味わうふうでもなかった。申し訳程度に口をつけたきりでカップを置き、居ずまいを正す。
「では、お聴きになりますか」
 前のめりの体勢とまっすぐなまなざしが、教室で描いた絵やつんできた草花を見せてくるときの悠人と、そっくりだった。
 美咲は隣を見やった。両足をぶらぶらさせてジュースを飲んでいた悠人が、こくりとうなずいた。
「こちらです」
 店員がテーブルの下から青い小箱を出し、悠人の正面にそっと置いた。
「どうぞ」
 悠人が両手を伸ばして箱を引き寄せた。ふたを開け、中の器械に目を落としつつ、細い持ち手を指でつまんでそろそろと回しはじめる。
 流れ出したのは、子守唄だった。


 速くなったり遅くなったり、たどたどしかった旋律は、やがて安定した。素朴な音色を、美咲は呆然として聴いた。
 よく知っている曲だった。美咲自身が、何度となく歌った。悠人のために。
 めったに泣いたりぐずったりしない赤ん坊だった悠人だが、寝つきだけはあまりよくなかった。世界で起きているはずの楽しいことをどうしても見逃すまいと心に決めているかのように、つぶらな瞳をぱっちりと見開いて、いつまでも眠ろうとしなかった。まだ耳のことを知る前、息子を眠りに誘おうと、美咲は繰り返し歌った。あるときは腕に抱き、揺すってあやしながら。あるときはベッドに寝かせて、ぽんぽんと優しくおなかをたたいてやりながら。
 わたしの声は、この子に届いていた。
 美咲の目の前で青い箱がにじんだ。ゆるやかに動いている、悠人のぷっくりした手もぼやけた。とっさに紙ナプキンをつかみ、目もとに押しあてる。
 オルゴールの音がとぎれた。
 薄いナプキンはたちまち湿ってしまい、美咲はポケットからハンカチを出した。何度も目を拭っている間、悠人がぎこちなく背中をなでてくれた。あたたかい手のひらの感触が、心地いい。
 この子はわたしが考える以上に、いろんなことを学んでいるのだ。誰から教えられたわけでもないだろうに、涙を流している人間がいれば、背中をさすって慰めようとする。
 わたしが悠人のそばについている、と思っていた。なにがなんでもこの子を守る、と思っていた。でもこれでは逆だ。悠人がわたしのそばについて、わたしを守ってくれている。なんだか妙におかしくなってきて、美咲は泣きながら小さく笑った。
「ごめんね」
 泣いてはいけない。悲しいわけではなくうれしいから泣いているのだと、悠人に伝えるのは難しい。
 難しいけれど、それでも伝えたい。
「ありがとう」
 深刻なおももちで美咲の目をのぞきこんでいた悠人が、表情を和らげた。
 美咲の耳の中に、そして心の中にも、安らかな子守唄が響きわたる。やわらかい音色に包まれて、いつしか涙はとまっていた。

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