母が、耳の聞こえない息子を連れて入った店は、「心に流れている音楽を聴いて、オルゴールにします」という、一風変わった店でした。
耳の聞こえない息子にオルゴールを買ってあげようとする母親は、間違っているのでしょうか?
それでも、店主はその子にむけて、「世界にひとつだけのオルゴール」を作ります。

今、評判の『ありえないほどうるさいオルゴール店』の第一話、絶賛公開中!


よりみち (第二回)

 店員はテーブルの前に折り畳み式の椅子を出して、美咲と悠人を座らせた。
「器械の種類と、外箱と、あとは曲目を選んでいただきます」
 器械は最も安い、音域の狭いものにした。それでも十六音が出せるのだから上等だ。店員いわく、市販されているオルゴールはたいていそれらしい。外箱のほうは、出してもらった見本の中から、悠人が迷わず青い木の小箱を指さした。
 曲目を決める段になって、困った。
「息子さんに、ですよね」
 店員はひとりごとのようにつぶやき、悠人に向かってたずねた。
「なにかお好きな曲はありますか?」
 おとなに対するような、丁重な言葉遣いだった。あまり子どもに慣れていないのかもしれない。妻子持ちでもおかしくない年頃のはずなのに、おっとりした口ぶりも華奢な体つきも、どうも生活感がない。
 話しかけられた悠人は、まばたきもせずに店員を見つめている。耳をすましているように、見えなくもない。
「曲のリストみたいなものってありませんか?」
 美咲は口を挟んだ。
「すみません。あることはあるんですが、お子さん向けのものではなくて。漢字ばかりなので、読みにくいかと」
「かまいませんよ。わたしが読むので」
「えっ」
 店員がきょとんとした。
「でも、息子さんのオルゴールでは……」
「はい。ただ、この子が自分で選ぶのは難しいですから、わたしがかわりに」
「はあ、そうですか」
 あからさまに眉をひそめられ、美咲は少しむっとした。まるで、子どものものを親が勝手に決めるなんてかわいそうだといわんばかりだ。
「あの、もしよかったら」
 彼は遠慮がちに続けた。
「こちらにお任せいただければ、ふさわしい曲をおすすめできますが」
 そういえば、チラシにもそんなことが書いてあった。
 しかし納得いかない。専門店の店員とはいえ、見知らぬ他人のほうが母親よりも、この子にふさわしい曲を決められるなんて。
「それはどうやって選ぶんですか?」
 美咲はあえて聞いてみた。
「ええと、選ぶというかですね」
 店員はまじめな顔で答えた。
「お客様の心の中に流れている曲を聴かせていただいて、それを使います」
 意味がわからない。黙っている美咲にはかまわず、彼はテーブル越しに身を乗り出した。
「実は、当店ではその方法を一番おすすめしています。これまでたくさんのお客様にご満足いただいてきました」
 美咲は沈黙を守った。心の中の曲を聴くだなんて、明らかにうさんくさい。変な店に入ってしまった。もしや法外な値段をふっかけてくるのだろうか。
「いかがでしょう。お試しになりますか」
「でも、お高いでしょう」
 遠回しに断ったつもりだったが、店員はぶんぶんと首を振った。
「とんでもありません。できる限り、お求めやすくさせていただいています。当店が自信を持っておすすめしているものですから」
 値段を聞けば、確かに既製品と変わらないようだった。完成してから、もしも気に入らなかった場合には、返品もできるという。
「じゃあ、それでお願いします」
 納得したというより、ふたりのやりとりを見守っている悠人の心配そうな表情が、美咲には気にかかったのだ。これ以上、押し問答を長びかせたくない。
「ありがとうございます」
 店員は神妙に頭を下げた。
「それでは、少しお時間をいただけますか」
 美咲ではなく悠人に声をかけ、テーブルのひきだしからぶあついノートを取り出した。
 

 店を出てから、美咲は悠人とまた手をつなぎ、運河に沿った石畳の小路をぶらぶら歩きはじめた。
 海に面したこの街は、昔は海運で栄えたという。往時のにぎわいが失われた今も、港に程近い一帯には、かつての面影が残っている。縦横にめぐらされた運河のほとりに、異国情緒の漂う石造りの建物や倉庫が並び、その外観を活かして中だけを改装して営業している店も見かける。あのオルゴール店もそうだろう。趣のある水都の風景は、新鮮な魚介類とあわせて市の観光資源にもなっている。港の周辺には、観光客を見こんだ土産物屋や飲食店も多い。
 ただし地元の人間は、なにか用でもない限り、わざわざ足を延ばす機会は少ない。美咲も例外ではなかった。週に二度、港とは駅を挟んで反対側にあたる高台の住宅地からバスに乗ってやってくるようになったのは、一年前からだ。
 悠人の耳が聞こえていないとわかったのは、二歳半のときだった。それから一年間、専門の教室に通っている。先天性の難聴だそうで、医者からは手術をすすめられている。決断は早ければ早いほど望ましく、遅くとも四歳の誕生日までには決めたほうがいいという。つまり、あと半年もない。
 手をひっぱられて、美咲はわれに返った。
 横に並んでいたはずの悠人が、半歩ほど前に出ていた。無意識のうちに歩みが遅くなっていたようだ。
「ごめん、ごめん」
 悠人が軽く首を振り、前に向き直った。日常的に使う簡単な言葉なら、手話に頼らなくても唇の動きと表情で伝わる。
 角を曲がると、運河がとぎれた。路地の先にこぢんまりとした緑地が見えてきて、悠人が足を速めた。
 緑地には誰もいなかった。ひと休みできるベンチも、子どもが好みそうな遊具もないせいか、たまに観光客らしき人影を見かけるほかは、たいがいひとけがないのだ。美咲が手を離したとたんに、悠人は奥の芝生へいちもくさんに駆けていった。
 めあては芝生そのものではない。そこに敷かれている、線路である。作りものではなく、実際に使われていた廃線の跡だ。役目を終えた線路が、ここを起点に遊歩道として整備されているのだった。これも、この街に活気があふれていた古き良き時代の名残らしい。
 悠人はぴょんぴょんと躍るような足どりで、線路の上を歩き出す。たまたま通りかかって以来、すっかり気に入ってしまい、教室の帰りにはほぼ必ず立ち寄っている。遊歩道は緑地の外にも続いていて、両側に柵が立てられ、車は入ってこられない。
 とはいえ、手入れが行き届いているのは緑地から二、三メートルほどだ。線路をたどって進むにつれ、周りに茂る雑草の背が高くなっていく。地面にはでこぼこが目立ち、大きな石ころが無造作に転がっている。
 最初のうちは、悠人が転ばないかと気をもんでいたけれど、危なっかしいのはどちらかといえば美咲のほうだった。つまずかないように注意しつつ、追いかける。もっとも、足もとに集中しているほうがよけいなことを考えずにすんで、ちょうどいい。不用意に周囲を眺め回すと、線路を渡る涼しい風が胸の中にまですうすうと吹きこんでくるようで、心もとない。
 なんてさびしいところだろう、と思う。もう二度と鳴ることのない踏切、永遠にきしむことのない線路、ここは音の失われた場所だ。
 悠人がいきなり足をとめ、しゃがみこんだ。線路の隙間からぼうぼうと伸びた雑草を、しげしげと観察している。美咲もその傍らにかがんだ。ひょろりとした草から母親の顔へと、悠人が視線を移す。
 一対の大きな黒い瞳の中に映りこんだ美咲は、薄く笑っている。悲しくなったとき、反射的に笑みを浮かべる癖がついてしまった。
「帰ろう」
 美咲は口を大きく開け、一音ずつ区切るように、ゆっくりと言った。
 泣くわけにはいかない。悠人に心細い想いをさせるわけにはいかない。この子には、目に見えるものがすべてなのだから。言い訳してごまかすことは、できないのだから。
「来週、また来ようね」
 こちらは手話を使った。そのときに、あのオルゴールも受けとりにいこう。


 近所のスーパーマーケットで買いものをしてから、家に帰った。美咲が食事の準備をしている間、悠人はおとなしくひとりで遊んでいた。夕食をすませ、悠人を寝かしつけたところで、陽太が帰ってきた。
 着替えてからリビングに現れるまでしばらく時間が空くのは、寝室に寄って息子の寝顔をのぞいているからだ。せっかく寝かせたばかりなのに、勢いよくドアを開け閉めするので、静かにしてちょうだい、と以前はよくたしなめたものだった。
 美咲は料理を手早くあたため直し、冷蔵庫から発泡酒の缶を出した。
「教室はどうだった?」
 食卓につくなり陽太がたずねるのは、習慣のようになっている。
「うん、いつもどおり」
 同じように耳の不自由な子どもが集う教室で、悠人は優等生でとおっている。なにをやっても理解が早く、規則をきちんと守り、友達とも仲よくやっているらしい。悠人くんは本当にいい子ですよ、とどの講師も口をそろえる。
「悠人は大丈夫でしたか?」
 見送りに出てくれた若い担任に、美咲は今日も聞いた。
「はい。今日も、とってもおりこうでした」
 彼女はほがらかに答えた。
「ご安心下さい。なんの問題もありません」
 悠人が入っている三歳児のクラスでは、一般の幼稚園と同じようにお遊戯やお絵描きをする一方で、手話や文字の勉強もする。親は親で別室に集められ、手話を習っている。専門家を招いた講演会や相談会が開かれる日もある。
 参加が義務づけられているわけではないが、美咲は毎回出席している。同じ境遇の母親たちと情報交換ができるのも心強い。話の内容によっては、ぐったりとくたびれてしまう日もあるけれど、悠人の待つ部屋まで廊下を歩いている間に、口の両端をひきあげる。他の母親もみんなそうだ。わが子をひきとるときには、相談会での悲愴な表情とは別人のように、穏やかな笑顔になっている。それぞれの息子や娘のために、笑ってみせるのだ。

 

「帰り道で、悠人にオルゴールを買ったの」
 昼間のできごとを思い出して、美咲は夫に言った。
「オルゴール? 悠人に?」
 うまそうに発泡酒を飲んでいた陽太が缶から口を離し、ぽかんとして聞き返した。美咲は早口で補った。
「器械が動いてるのを見るのがおもしろいのかな。すごく気に入ったみたいで」
 陽太が気を取り直したようにうなずいた。
「そうか、よかったな。どんなの? 見せてよ」
「まだできてないの。これから作ってくれるって」
「へえ、オーダーメイドってこと? 本格的だな」
「うん、まあ。でも意外に安かったよ」
 美咲が言うと、陽太はすぐさま首を振った。
「いいよそんな、値段なんか。悠人がなにかほしがるなんて、珍しいし」
「来週、教室の帰りにでも取りにいくつもり。店員さんが、おすすめの曲を選んでくれるんだって」
 それでは聴かせていただきます。
 あの店員は厳かに宣言し、おもむろに両手を耳にやった。長めの髪に隠れた左右の耳に、透明な器具がひっかかっていることに、美咲はそこではじめて気がついた。
 彼は慣れた手つきで両耳からそれぞれ器具をはずし、テーブルの隅に置いた。ことり、とかすかな音がした。
 あまりじろじろ見てはいけないと自戒しながらも、美咲は器具から目を離せなくなっていた。かたちは補聴器によく似ている。でも、おかしい。彼は悠人の「心の音楽」とやらを聴くと言ったのだ。もしこれが補聴器なら、どんな音を聴くにしても、はずすのではなくてつけるところではないか。
 店員は美咲の視線を気にするでもなく、机の上に出したノートを開いた。中は五線紙だった。ペンを手にとり、悠人の顔をまじまじと見据え、それから目をつぶった。芝居がかったといえなくもない一連の動作を、美咲はあっけにとられて見守った。
 数秒だったか、数十秒だったか、彼はじっとまぶたを閉じていた。そして、やにわに目を開け、五線紙の上に猛然とペンを走らせはじめた。のんきそうな雰囲気から一変して、なにかに急きたてられているような、ただならぬ勢いだった。美咲は気圧され、ただ眺めていた。悠人はまじめくさった顔をして、身じろぎもしなかった。
 あっというまに一ページ分を埋めてしまうと、店員はぱたんとノートを閉じた。なに食わぬ顔で耳に器具をつけ直し、月曜日にはできあがりますので取りにいらしてください、お代もそのときにちょうだいします、と事務的に告げた。
 むろん、彼に本当に音楽が聞こえていたのかどうかはわからない。それらしい身ぶりをしてみせたとはいえ、冷静に考えればかなり眉唾ものだ。楽譜を読み慣れていない美咲には、五線紙に並んだ音符を反対側から見ても、なんの曲かはわからなかった。悠人くらいの年齢の子に受けそうな曲を書きとめただけかもしれない。
 半面、興味もあった。できあがったオルゴールからは、いったいどんな旋律が流れ出すのだろう。店員の言葉を信じるなら、これまで何人もの客に同じ方法でオルゴールを作ってきたらしい。そんな彼が悠人のために選んだ音楽を、美咲も聴いてみたい気がした。
 しかし、陽太は違ったらしい。
「それ、どうなの? あやしくない?」
 疑わしげにたずねられ、詳しく話したことを美咲は後悔した。どう考えても、陽太が好みそうな話ではない。
「その店員、悠人の耳のことは気づいてた?」
「たぶん、気づいてなかったと思うけど」
 悠人の耳が聞こえないと知った相手が見せがちな表情を、彼は浮かべていなかった。子ども慣れしているふうでもなかったから、悠人くらいの年頃ならけっこう喋るものだという知識も、持ちあわせてはいないのだろう。せいぜい、無口な子だと感じた程度ではないか。
「ひとこと言えばよかったのに。そしたら、そんな妙なことも言われなかったんじゃないの」
「だって、赤の他人にそんな……」
 行きずりの他人にまで、同情されたり困惑されたりしたくない。
「事実じゃないか」
 さえぎった陽太の声に、もう険はなかった。子どもに言い含めるような、淡々とした口ぶりだった。
「気に入らなきゃ返品できるっていったって、悠人にはどうしようもないよな? 気に入らないもなにも、どんな音が鳴ってるんだかわかんないんだから」
 陽太は正しい。いつだって正しい。耳が聞こえない息子のことを、全力で守ってやるべきだと言う。現実を直視すると同時に、卑屈にならず堂々とかまえて、弱者としての権利を主張しなければならない。おれたちには親として戦う責任がある、と。
「まあ、もう買っちゃったものはしかたないな。悠人が喜ぶんだったら、それが一番だよ」
 陽太が話を打ち切るように、ごちそうさま、と手を合わせた。食卓から立ちあがりざま、ひとりごとのようにぼそりとつぶやく。
「やっぱり手術を受けたほうがいいんじゃないかな」
 最近、悠人の話をしていると、決まってそこへ行き着く。可能性を広げるために、できる限り手を尽くしてやりたいというのが陽太の考えだ。
 もちろん美咲だってそう思っている。心底思っている。
 ただ、全身麻酔が必要となる頭部の大手術となると、どうしてもひるんでしまう。悠人の小さな頭が切り開かれるなんて、考えただけで胸が苦しくなる。それで取り返しのつかないことになってしまうくらいなら、高性能の補聴器や手話をめいっぱい活用して、今の調子でどうにかやっていけないものだろうか。幸い悠人は手話の理解も早く、相手の唇の動きや表情を注意深く読みとることにも長けている。今のところ、意思疎通の面でそこまで不自由はない。
 なかなか決論を出せない美咲を、陽太は急かそうとはしない。悠人と一番長く一緒にいる美咲の判断を、尊重したいと言ってくれている。それはたぶん、うそではない。正直なひとだ。正直すぎて、ときどき気持ちがあふれ出てしまうのだ。
 教室で顔を合わせる難聴児の親たちの間でも、手術に対する姿勢はまちまちだ。思いきって受けてみたいという肯定派も、様子を見ておいおい考えていくという慎重派もいる。
 いろんなひとが、いろんなことを言う。身近なところでも、たとえば美咲の母は、陽太とまるで違う意見を持っている。
 ありのままを受けとめてやればいいと母は美咲を励ます。誰が悪いわけでもないんだし、自分の子どもに誇りを持ちなさい。お兄ちゃんのとこだって、あんなに大変だったのに、なんとかなったじゃないの。
 美咲の兄には一人娘がいる。赤ん坊のときから癇が強くて手を焼いていると聞いてはいたが、たまに一家と顔を合わせるたびに、どちらかといえば姪よりも嫂の様子に美咲は驚かされた。出産前は上品で優しかった彼女は、別人のように険しい顔つきで、ヒステリックにわが子をしかりつけていた。娘が床を転げ回って泣きわめけば、美咲たちが見ている前でも、ぞっとするほど冷たい声を張りあげて応戦し、手を出すときさえあった。母から聞いた話では、娘の脳に障害があるのではないかと疑って、検査まで受けたらしい。なにも異常はないと診断結果を言い渡されたときには、なにかの間違いじゃないか、この子は絶対におかしいはずだ、と医師に食ってかかったそうだ。
 そんな姪は、幼稚園に入ったらころりと落ち着いた。昨年小学校に入学し、学級委員を務めている。今では母娘の仲もしごく良好だという。言葉が通じるようになったのがよかったんだな、と兄は感慨深げに言っていた。相手の声が物理的に聞こえるかどうかと、その言葉の意味を正しく理解できるかどうかは、別の問題なのだ。
 ともあれ、そうして状況が好転してからも、手のかからない悠人を見るにつけ、いいわねえ、と嫂はうらやましげに言ったものだった。つい一年ほど前までは。

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