瀧羽麻子さんの新刊『ありえないほどうるさいオルゴール店』を読んで「泣いた!」という声が、多数聞こえてきています。

この物語の舞台は――。
「お客さんの心に流れている曲が聞こえる」という不思議な力を持った店主が、その音楽をオルゴールに仕立ててくれるという、風変わりなお店。
ここに、いろんな思いを抱えたお客さんが訪れるのです。
店主ははたして、彼らの心にどんな音楽を聴き、どんなオルゴールを手渡すのか…。
このたび、編集者がもっとも泣いた!という第一話を3回に分けて無料公開。

 よりみち (第一回)

 静かな店だった。
 美咲は右手を悠人とつないだまま、左手で重たい木のドアを閉めた。からん、とひかえめなベルが鳴り、また静寂が戻る。おもての小さなショーウィンドウを見て、音楽か、そうでなくてもなにかしらの音が聞こえてくるかと予期していたので、こうも静まり返っているのは少し意外な気がした。
 三、四坪ほどのこぢんまりとした店内には、客も店員もいない。奥に向かって細長いつくりで、天井まで届く高い棚が左右の壁に沿って並んでいる。つきあたりには横長のテーブルが据えられ、そのさらに背後に、もうひとつドアがひかえている。ショーウィンドウの他には窓がなく、天井からぶらさがった、ガラスのかさがついた古びたランプも消えていて、全体にほの暗い。初夏の陽ざしの中を歩いてきて、目が馴れていないせいで、よけいに暗く感じるのかもしれない。ランプに限らず、飴色に磨きこまれた床も棚も、どっしりしたテーブルも、内装はおしなべて古めかしい。静けさと暗さが相まって、骨董屋か古本屋か古着屋か、とにかくある程度の年月を経たものを扱う場所のようにも見える。
 そういう店を、悠人はなぜか好むのだ。他の子と違って、カラフルなおもちゃ屋や甘いにおいを振りまくケーキ屋には、目もくれない。
 きょろきょろと左右をうかがっている息子のつむじを、美咲は見下ろした。視線を感じたのか、悠人が体をひねってこちらをふりあおいだ。にっこり笑い、美咲の手をひいて棚に向かっていく。
 天井から床まで細かく区切られた棚には、どの段にも透明な箱がびっしりと並んでいた。手のひらにのるくらいの小ぶりのものもあれば、ショーウィンドウに飾られていたような、比較的大きなものもあり、そのひとつひとつに金色の器械が入っている。
 誘われるように、悠人が右手をさしのべた。
「さわったらだめ」
 美咲は思わず声を出し、悠人の左手をひっぱった。悠人がびくりと肩を震わせ、伸ばしかけていた手をひっこめ、そして突然、右を向いた。
 美咲もつられてそちらを見やり、息をのんだ。
「いらっしゃいませ」
 店の奥に、黒いエプロンをつけた男がいつのまにか立っていた。

 すみません、見ているだけなんです、と美咲がおずおずとことわっても、店員はいやな顔はしなかった。
「そうですか。どうぞ、ごゆっくり」
 優しく言って、テーブルの向こうでなにやら作業をはじめた。迷惑がられているふうではないものの、それでもやはり美咲は落ち着かない。
 オルゴールは三歳児向けの遊び道具ではない。特に、悠人のような三歳児の。
「そろそろ行こうか」
 つないだ手を小刻みに揺らしてみた。悠人は反応せず、食い入るようにオルゴールを見つめている。手はふれないかわりに、顔をぎりぎりまで近づけている。頭のいい子だ。さっきさわろうとしてとがめられたのを、ちゃんと覚えているのだろう。
 美咲はあきらめて手の力をゆるめた。悠人の手がするりと抜ける。
 日頃から聞きわけのいい悠人がこんなふうに動かなくなるなんて、珍しい。せっかくだから心ゆくまで眺めさせてやりたい。
 店員を横目で盗み見る。客を気にするそぶりもなく、うつむいて手を動かしている。手もとの電灯に照らされて、先ほどよりも顔がよく見えた。年齢は美咲と同じ、三十代の半ばくらいだろうか。色白で、ほっそりとやせていて、さらさらしたまっすぐな髪が耳の下あたりまで伸びている。
 美咲はまた棚に向き直った。手持ちぶさたに視線をすべらせたところで、隅に白い紙が何枚か重ねて置いてあるのが目にとまった。
 一枚、手にとってみる。ざらざらした粗い手ざわりの紙に、手書きの文字が並んでいる。この店を紹介する、手作りのチラシのようだった。

 オルゴールの器械には、文字どおり櫛のかたちをした櫛歯と、円筒形のシリンダーが組みこまれています。櫛歯はピアノの鍵盤と同じように、数が多いほど音域が広くなります。歯の数にちなんで、一八弁、三〇弁、などと呼ばれ、一四四弁という大型のものまであります。この櫛歯を、シリンダーにつけた突起ではじいて音を出します。シリンダーの回転方法によって、手回し式とぜんまい式があります。
 オルゴールをお求めいただく際には、上記の器械の種類とあわせ、曲目と外箱も決めていただきます。曲目は、既製品の中から選ぶことも、お好きなメロディーをオーダーメイドで作ることもできます。ご相談いただければ、耳利きの職人が、お客様にぴったりの音楽をおすすめします。外箱は色や素材を選べるほか、絵を描いたり飾りつけをしたりもできます。ご自分やご家族との思い出の品として、またプレゼントとしても最適です。
 世界にたったひとつ、あなただけのオルゴールを作ってみませんか?

 宣伝文句の下には、組みあわせの例がいくつか挙げられ、値段の目安も記されている。千円台から数万、数十万円まで幅広い。オルゴールといえば土産物屋で見かけたことがあるくらいで、専門店に入るのははじめてだが、けっこう奥が深いものらしい。この界隈には何度も来ているにもかかわらず、こんな店があるとは知らなかった。年季の入った店がまえからして、最近できたふうでもない。道を挟んで向かいにある、古びた喫茶店には見覚えがあったから、前を通ったことはあるのに見落としていたのだろう。
 不意に、なつかしい、可憐な音色が耳に飛びこんできた。美咲はチラシから顔を上げ、ぎょっとした。
 悠人がいない。
 あせって首をめぐらせると、奥のテーブルの手前に、小さな後ろ姿が立っていた。とっさに、大きな声が出た。
「悠人」
 オルゴールの音がぴたりとやんだ。
 やや背をまるめ、テーブルを挟んで悠人と向かいあっていた店員が、美咲を見た。一拍遅れて、自分の肩あたりまである机の縁に両手をかけて彼の手もとをのぞきこんでいた悠人も、顔を上げた。
 それから、彼の視線をたどったのだろう、美咲のほうを振り向いた。
「すみません」
 美咲はふたりに駆け寄った。悠人は不安そうにおとなたちを見比べている。
「いえ、こちらこそ説明もせずに、失礼しました。そこにあるのは全部見本なので、自由にさわっていただいてかまわないんですよ」
 美咲の頬が、かっと熱くなった。
 そうだ、ここに並んでいるのは、置きものでも精密機械でもない。いくら熱心に見つめても、それだけではオルゴールの中にどんな音楽が封じこめられているのかはわからない。ためしに聴いてみようとするのはごく普通のことだろう。親子連れだったら、母親がひとつ手にとって、子どもに聴かせてやるところかもしれない。
 もし普通の親子連れだったら。
「動いてるほうが、おもしろいですよね」
 店員は再び手首を回し、オルゴールを鳴らしはじめた。美咲にも聞き覚えのある、古い子ども向けのアニメの歌が流れ出す。今もまだ放映しているのだろうか。近頃はほとんどテレビをつけないのでわからない。
「音が見えますからね」
 店員が楽しそうに続けた。
 美咲はあらためて器械に目を落とした。チラシにも書かれていたとおり、円筒を横に倒したかたちの部品と、櫛の歯のようなひらたい部品が、くっついて配置されている。透明な箱から突き出した持ち手を回すと、筒が動き、表面の細かい突起が並んだ歯をはじく。
 確かに、音が見える。
「ひとつ、いただけますか」
 気づいたら、美咲はそう言っていた。
「お母さんに? それとも、お子さんに?」
 店員が微笑んだ。手は休めない。悠人はかすかに首をかしげ、彼の手もとを凝視している。悠人の耳は大きい。なめらかな曲線を描いた耳たぶはふっくらと厚く、いわゆる福耳と呼んでいいだろう。
 こんなに立派な耳がその機能を果たしていないなんて、本当に信じられない。
「息子に」
 と、美咲は答えた。

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