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 賭けに敗れたことを私は悟った。

 連休のどこかでドライブに行こうと提案すると、「えっ。もう予定、けっこう入っちゃってるし」と反射的に顔をしかめられた。

 10歳も年上の彼は、何をするにも慣れきっていて、決して背伸びしない。どんなレストランでも堂々としているし、どんなダサいTシャツも平気な顔で着られる。それは私に、心からの安心を与えた。会食が毎日入って多忙な中でも、必ず予定を合わせて、ごはんやドライブに連れ出してくれたのが最初の2か月。それ以降は、私の方に直前に予定が入ってドタキャンしても、全くがっかりした様子を見せなくなった。彼はどんどん私に対してさらさらとしていき、反比例するように、私は粘着の度を強めていく。

 悪いスパイラルに入ったと、私は悟った。

 30代に入った女の恋愛というのは、日々ちやほやとしてほしいわけでもない。金沢や台湾に行こうという約束は流されたし、なんとなく予定を合わせていた日にも、直前に尋ねると仕事の会食が入っているという。ただ、こういうことのいちいちに憤慨するほどのエネルギーは、30代も半ばに差しかかると失われていくのだろうと、私は思う。

 正直、多すぎるイベントはきつい。仕事の予定をブロックしておかなくてはいけないし、種々の調整もある。こちらだって仕事優先で約束を守れないことがあるのだから、向こうもそうだと、逆に気持ち的に楽っていうくらい。

 何がつらいのかというと、おそらく、安定して愛されているという安心感が得られないことだろう。サプライズとか、バレンタインとか、そういうのはうっすらと面倒になっていく。ただ、日々、安定して揺らぎのない愛情があると確信できれば、それでいい。3週間会えなくても、ある程度、こまめに連絡をもらえれば、さほどの文句はない

 だが、彼は明らかに連絡の頻度を減らした。こちらからメッセージをしない限り、向こうからの連絡はない。私は、こういうのが意外と気になる。ただ、四六時中、携帯を確認するなんてことは、女子高生にしか許されない恋愛至上主義者になってしまったようで、ぞっとする。だから、私は、彼からのメッセージを非表示にした。そして、1週間経って、さぞ慌てふためいているだろうと、メッセージを表示させてみる。そして、全く連絡が来ていないことに気づいたときに、別れたほうがいいのだろうと悟った。

 連休の予定を合わせようと連絡したが、「その日は無理かな」と淡白な返事が届く。「会えないのは仕方がないと思うけど、全く会いたいと思ってなさそうなのは、やっぱり悲しいかなぁ」と返すと、「そんなことないよー」と間延びした返事が来る。

 この人は悪気があるわけではなくて、もともと無精なのだろうと思う。はじめの2か月の間に極めてまめだったのは、まぁ、男ってそういうものなのでしょう。試しに聞いてみたら、「えー、全然、変わったつもりないんだけど」って言ってたから、意識的ですらないに違いない。

 で、私は、「悪気がないのは分かっているし、会えば普通に優しいし、特に不満があるわけじゃないんだけど、コミュニケーションが取れなくて疲れちゃったのかな」というメッセージを送る。これは半々の賭けだろうと、私は確かに知っていた。そして、多分、今思うに、半々以上の相当高度な確率で自分が勝つと思っていたに違いない。なんせ私は、彼に比べると10歳も若く、聡明で、かつ、今回に限っては非常に聞き分けのよい女でもあった。私を引き留めるために、彼は何らかの妥協案を提案してくるに違いない。

 だから、「そっかー。じゃあちょっと間を空けようか。たぶんタイミングもあるし」という返信が来たときには、覚悟が足りなかった分だけ慄いた。

 そっか、そうきましたか。つまり、私が思っていた以上に、彼にとっての私の価値が低下していたということだろう。賭けに敗れたのならば、あっさりと引き下がるしかない。ここで駄々をこねると、恋愛の消費カロリーは極めて高くなる。惨めな思いが断然募る上に、成功する確率が低いというのが、30年を超える人生での経験則だ。

 そこで私は礼儀正しく別れを告げる。今までの思い出に「楽しかった。ありがとう」と言う。それだけ。責めない。騒がない。

 それなのに、彼からすぐに「わかった」と短い返事が来たときには、私は年甲斐もなく再び動揺することになる。そうか、そう簡単に了解されてしまうほど、私は軽い存在だったんだと自覚するのは、胸元に刃を突き付けられることに似ている。

 そうして、私は考えてみることにする。私の何がいけなかったのだろうかと。最初は優しい彼らは、あるときから驚くほど冷淡になる。私のどこにそれほどの落ち度があったのだろうかと。

 そして、気づく。たぶんそうではないに違いない。私のこの感情は、恋でも愛でもない。執着以上の何物でもないのだ。頻繁に誘われ、大袈裟に気遣われるのは、なんとなくこそばゆい反面、さほど響かなかった。それどころか、かしずかれるほどそれが当然だと思うようになり、自分の時間を彼に独占させるのはもったいないような気さえしてきていた。ところが、掌を返されるようにそれが奪われたとき、私は自信を失ったのだ。自分の価値が下がったような気がして、取り戻そうと必死になる。そして、そこに執着が生まれ、それが、相手を辟易とさせるのだろう。自分の身体をひさぐ若い女が、相手に金で買われるたびに、自分が求められているようでうれしかったというのを他人事のように聞いていたが、そういう精神構造と似ているとすらいえまいか。

 そこで難しいのは、この手の女は自己評価が低いようで、自己愛が強いという事実だろう。そう、私は、決して相手のことなんて見ていなかった。常に常に、相手の瞳の中に覗く自分を観たいと願う。どういう言葉をかけられ、いかなる扱いを受け、何が相応しいのか。鏡のように相手の中に自分を投影し、自分の客観的な価値を知ろうともがく。

 巨大な自己愛の塊と化した私の恋愛は、至極当然のように自己完結を志向する。淡白になっていくのは、私の落ち度だけでもないのだろう。新しい興味対象に入れあげ、飽きると放り出す少年のような自分勝手さは、男にとって珍しいものではない。それは相手のバイオリズム以上の何物ではなく、それを自分の責任だと思い込むこと自体が、ひとつの思い上がりかもしれない。

 ささくれだった心が凪いでくると、私は自分に言い聞かせる。ねぇ、これはあなたと彼で解決すべき問題ではないのよ。「わかった」の一言で関係を終わらせられる男には、あなたと人生をシェアする気なんて、はなからなかったの。だから、これはあなただけの問題。今すぐその執着を捨てればいいの。それで終わるの。よかったじゃない? あなたの人生に他人を組み入れなくて済んで。私の人生は私が100%コントロールする。感情を波立たせるだけの制御不能な物体なんて、欲しくない、決して。

 いつか、自分の価値を確かめる闘いに、他人を巻き込まなくて済むようになろう。私の心に、他の人の分のスペースを作れるようになろう。それがいつの日になるか分からないけど、私はそのときに、競争の螺旋階段を降りて、新しい何かを見つけるのだと思う。でも、それは今じゃない。だから、私は、足を止めずに螺旋階段を上っていきたい。てっぺんに何があるかは分からないけど、少しでも上からの景色が見たいから。

***

 久しぶりに妄想恋愛小説を書きあげました。ほんとは法学部じゃなくて文学部に行きたかった私は、ほんとは法律家じゃなくて小説家になりたかったの。あまりに狭き門だから挑戦すらできなかったけど。我慢して読んでくださった方、ありがとうございます。

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