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 財務省の事務次官だった福田淳一氏が、セクハラ発言を理由として辞職することになった。続いて、TOKIOの山口達也「メンバー」も、女子高生にキスを迫ったことで、無期限謹慎に追い込まれ、契約解除となった。セクハラとそれに対する断罪が、ニュースとなって踊る。

 これらのニュースは、私を不思議な気持ちにさせる。公に向かっても言える建前と内輪だけの本音――社会がこの二つに激しく引き裂かれてしまったと思うのだ。

 

1. まぁ、そんなん目くじら立てるなよという人々

 この間、お友達のお家のホームパーティに行った。着くのが少し遅れたので、周囲はある程度お酒が回って、盛り上がっていた。私は疲れていたので、あまり話す気力もなく、自然と聞き役に回った。私の向かいに座った50代の男性は、セクハラについて持論を展開する。

「女っていうのは権力が好きなんだな、これが。お金が好きだって思われてるし、もちろんそういうのも多いけど、同時に権力も好きなんだよ。だから、地位のある男からのセクハラを嫌がるやつもいるけど、受け入れるのだって多い。多くの部下を顎で使うような男が、自分の性的な魅力に翻弄されるなんて、優越感をくすぐるじゃないか」

 

2. 絶対に許すべきでないという人々

 ところが、テレビのコメンテーターは、みんな揃って大いに批判する。TOKIOの山口氏と女子高生の間に何があったのかは知らないが、「(キスくらいで)無期限謹慎処分なんて、厳しすぎ」と綴られたデビ夫人のツイッターは、予想にたがわず大炎上した。

 プライベートの場ではなんと評されようが、パブリックな立場でセクハラを擁護するのは、今や難しい。

 オフィスとキャンパスでのセクハラにとても厳しくなったアメリカでは、現状は、「女性がイヤと言えば、たとえ良好な恋愛関係だったとしても、遡ってアウト」と考えられている。これは本当の話だが、ある男子学生は、1年下の女子学生との間でお互いに好意を持ってデートを続けていた。しこたま泥酔したパーティの後に、男子学生の部屋になだれ込んだ両者は、そこで初めて関係を持つ。次の日、今度は、彼女を部屋まで送った彼は、もう一晩を一緒に過ごした。ところが、この関係が後になってモルモン教徒の親にばれて、彼女は激しく叱責される(←モルモン教っていうのは、性的にはヤバいくらい厳格なんですよ、斉藤由貴さんが信者だから日本ではそんなイメージ薄れてますが……)で、彼女は遡ってこう言う。「私はレイプされた」と。その際に、彼女はかつてのボーイフレンドに「あなたの人生を破滅させることだってできるんだから」と言い放っている。

 刑事犯罪と違って、大学での放校処分については、女性側への反対尋問権は保証されていない。したがって、一度泥酔して関係を持った後にも、良好な関係が続いていたことをどう思っているか、男子学生から質問をする機会もなく、彼には事実上の退学処分が下された。

 これがクリーンを極めたアメリカの結論である。

 

3. #MeToo Movementとセクハラ

 これほどセクハラに厳しいアメリカですら、ある意味、タブー視されてきたセクハラ……#MeToo Movementの盛り上がりは、何十年も言えないくらいセクハラが重い問題であることを改めて教えてくれるとよく言われる。

 確かにそういう要素はあると思う。だけど、多分、私が思うに、アメリカの社会は右から左へと短い間に極めて極端に揺れたのだ。試しに、アメリカの1980年代のセクハラ訴訟の顛末なんかを見ると、けっこうぎっくりびっくりである。人事課が人事権を握り、解雇がかなり制限される日本と違って、アメリカの上司は気に食わなければクビにする権利を持っている。その力を背景に、強制的に何十回も性的関係を結ばされる事例が相次いだ。日本でも、工場長が何十人もの女工と強引に性関係を結び、ときとして妊娠までさせたなんて女工哀史の時代があるけど、あれって1920年代の話なんでしょ? 少なくとも1970年代くらいまでのアメリカ社会は、女性差別という意味では日本よりもよっぽどひどかったのではないかと、私は思っている。

 ここ数十年でアメリカ社会は急速に変わった。だから、十年前に言えなかったことを、今、SNSで口にしているという要素もあるのかもね。ところで、これは、法律論から言うと、客観的証拠を収集しにくい上に、被害者側の主張だけで加害者を社会的に抹殺してしまうという意味で、人権の観点からはやや問題があるように思う。ハーバード・ロースクールで最も左の女性教授ですら、この点は指摘している。

 

4. どこがちょうどよいラインなのか?

 被害者が泣き寝入りするのはよくない。だからといって、被害者の主張だけで解雇されちゃうのも怖い。いったいどこにセクハラの線を引くべきか? 社会は、今ここで二つに分かれている。仲間内では、「女性記者もさぁ、取材対象に呼ばれたからって、夜にバーに行くやつもなぁ」なんて言いながら、公共の場では「1対1で取材せざるを得ないのだから、女性側に落ち度は一切ない」と賢しらに口にする。プライベートでの灰色な線引きと、パブリックでのクリーンな線引きと、ここには大きな開きがある。こういうダブルスタンダードに誰も納得しまい。

 これは、私の極めて個人的な感想だが、被害者の落ち度に殊更に着目すべきでは決してない。一方、一切の落ち度がない聖女のように描くことにも、私は反対する。

 例えば、私がセクハラを受けた経験を思い出すと、後ろめたさも同時に覚える。年配の男性にごはんに誘われたとき、私は彼が純粋に私の経験を聞きたいと切望していると信じ切っていたのか。彼より20歳も若い私の意見は、それほどまでに聞く価値がある大局観を持っているのだろうか……彼が私に対して、多少なりともセクシャルな好意を持っていると想定すらしないのなら、私は相当ナイーブだということになる。

 そう思うと、私は自分も共犯者のように思えて、後ろめたさを感じる。だから、セクハラは恥ずかしいし、後ろ暗いし、告発しにくいのだ。

「そんなことに後ろめたさを感じる必要なんてなかったんだよ」と、表立って皆から慰められるのは分かっているけれど、多分、そう言ってくれる誰かさんの顔には「隙あり」っていう表情が伺えちゃうし。っていうか、私が自分自身をそう思っちゃうし、だから絶対に#MeTooなんて、私、言い出せないわ、という感覚がある。

 

5. 個人攻撃で終わらせていいの?

 ここだけははっきり言いたいが、私はセクハラ被害者の落ち度を話したいわけでは、絶対にない。それだけは言いたくない。そんなことじゃない。

 個別の事情や気持ちなんて全く分からないし、被害者が匿名を望んでいる以上、それを勘ぐるべきではない。ただ、もしそこに、特ダネを取ろうという記者としての功名心や、この記事を公表してやろうという復讐心が、多少なりとも混じったとしても、だから何だと言いたい。被害者が聖女である必要なんて全くない。

 と同時に、これはまだ慎重な検討が必要なところだから、声を潜めて発言したいのだけど、セクハラに関する社会のコードが明確に確立する前に、「ここまではいいだろう」という旧時代の感覚に従って、相手の嫌悪感に無頓着になっていた下品で有害な男を、その愚かさゆえに、ことさらに重く処罰する、それで終わらせるっていうのもなんだかなぁと、私は思う。公開処刑を見て、自分は引っかからなくてよかったと日々の幸せを確認するなんて、小市民的じゃん?

 法律的には、刑罰を受ける前提として、「ここまではOK、ここから先はアウト」というラインが明確に引かれていかなくてはならない。ところが、セクハラにおいては、このラインがきわめて曖昧。世の中の空気感で、社会的に抹殺されるという極めて重い制裁を受ける。これは公平なのだろうか。

 セクハラに関するこの訴えを、ある勇気ある女性の地位ある男への胸をすくリベンジにして終わらせてはいけない。被害者・加害者の人格に関する個人的な興味という、そういうゴシップ的な渇きが癒されると、私たちは日常へと戻っていく。誰もこんなニュースに関心を持たなくなる。だけど……

 ある程度いいじゃん的な本音と、どこまでもクリーンであるべきという建前の二つのセクハラのラインは、大きく引き裂かれたまま。私たちがすべきことは、この間のどこが、社会にとってリアルに守ることができる線なのかを、時間をかけて話し合うことではないか。正論で社会の隅々まで照らすのは、社会に無理を強い、どこかでバックラッシュが生じる。どこに線を引けるのか―― 一筋縄ではいかないこの問題を、これをきっかけにゆっくりしっかり話しはじめなくてはならない。

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