僕は大阪出身なのだけど、普段はあまり関西弁を使わない。

 そんな風になったのは大学時代だ。関西の大学だったのだけど、周りの人間は関西人以外が多かったので、そのときにいつの間にか標準語のアクセントで話すやり方を覚えてしまった。今は標準語を話す人が相手だと標準語で話すし、関西弁の人と話すときは関西弁で話すことが多い。

 関西人は関西以外の土地に行ってもずっと関西弁を通す人が多い。僕みたいに中途半端に関西弁を話したり話さなかったりするやつは、関西ネイティブの人には結構気持ち悪がられたりする。関西人は中途半端な関西弁を一番嫌う。僕自身も、高校生の時までは当たり前のように関西弁を話していて、「標準語ってなんかドラマみたいで恥ずいわ。標準語話すやつとは絶対友達になられへんな」とか思ってたのだけど。実際は全然そんなことはなかった。

 どうも自分は周りの影響を受けやすい気がする。言葉だけじゃなくていろんな面でそれを感じる。

 例えば一人だとあまりお酒を飲まないけれど、相手が飲むと自分も飲みたくなる。一人だとそんなに美味しくないんだけど、お酒が好きな人と一緒だと美味しいって思う。タバコも普段はあまり吸わないけれど、相手が吸っていると吸いたくなる。アニメとかも一人だと見ても楽しくないので全然見ないけれど、誰かが見ていると一緒に見て楽しめたりする。

 良く言えば人に合わせる力があるし、悪く言えば自分自身がないということだろう。ただ、体力がなくて人に合わせるのは短時間しかできないから、会社で働いたりするのは苦手なのだけど。

 人の話を聞いていても、よっぽど自分の意見とかけ離れている場合以外は、大体何でも「そうだね」って同意してしまう。

 ある人と、

「Aという店いいよね」

「あー、いいよね」

 と話したあと、別の人と、

「Aって店いまいちじゃない?」

「あー、そんなに良くはないよね」

 みたいな話をしたりしてしまう。

 別に嘘をついてるわけじゃないけど、相手の話を聞いていると、この人がそう言うのならそういう面もあるのだろう、という気分になってしまうのだ。

 世の中の人の意見で、100%正しい意見とか100%間違っている意見というものはあまりない。それぞれある程度の理があったり、どっちもどっちだったりする。だからわざわざ相手の言うことを否定する気になれないし、相手を否定してまで主張したい意見もない。相手の言うことを否定して議論になるとたくさん話さないといけないから面倒臭いだけかもしれないけれど。

 そしてそういう会話をするときに、つい関西弁が便利だから使ってしまうというのがある。

 関西弁には、相手の意見を曖昧に、そして無責任に肯定するのに便利な言い回しが多いと思う。

「せやな」

 とか、

「ええんちゃう」

 とか、

「多分そうなんちゃう、知らんけど」

 とか。

「せやな」は「そうだよね」と同じ意味で、「ええんちゃう」は「いいんじゃない」と同じ意味だけど、どちらも標準語より関西弁のほうが2割くらい無責任なニュアンスが強いと思う。

「知らんけど」って何だよ、知らんのなら言うなよ、って思うけど、関西人はこれをよく使う。「多分そうなんちゃう、知らんけど」って冷静に見ると何の情報量もないよな。

 そんな風に、普段は標準語を使いつつ都合のいいときだけ曖昧な関西弁を使うことで、ますます僕は関西人からも関西人以外からもいい加減なことばかり言ってる胡散臭いやつだと思われていくのかもしれないけど、まあええんちゃうかな。知らんけど。

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pha『ひきこもらない』

家を出て街に遊ぶ。
お金と仕事と家族がなくても、人生は続く。
東京のすみっこに猫2匹と住まう京大卒、元ニートの生き方。

世間で普通とされる暮らし方にうまく嵌まれない。
例えば会社に勤めること、家族を持つこと、近所、親戚付き合いをこなすこと。同じ家に何年も住み続けること。メールや郵便を溜めこまずに処理すること。特定のパートナーと何年も関係を続けること。
睡眠薬なしで毎晩同じ時間に眠って毎朝同じ時間に起きること。
だから既存の生き方や暮らし方は参考にならない。誰も知らない新しいやり方を探さないといけない。自分がその時いる場所によって考えることは変わるから、もっといろんな場所に行っていろんなものを見ないといけない。