大学3年生になってすぐぐらいの頃に、中国の上海に行った。高校時代の仲間のひとり、ともちゃんが上海留学をしていて、そいつにすごい会いたかったのと、上海の汚い飲み屋でダチとベロベロに酔っ払えたら最高だよな、なんてことを思って。自分は旅行というものには全く胸が躍らないんだけど(有名な建物とか景色とか見ても「写真と変わらなくね?あとこれ、5秒くらいで飽きるくね?早く帰ろうよ」とか言う。モテない)、そのときばかりは心弾ませて、パスポート作ったりとかの煩雑な作業も前向きにこなし、僕はうっきうきな気分で飛行機に飛び乗った。

 上海空港で、ともちゃんが出迎えてくれる。彼は非常に下品な男だ。「中国の床屋には手で性的処理をしてくれるサービスがあり、大変満足した」「中国の高級風俗に早く金を貯めて行きたい。俺はそのために中国大陸に降り立った」屈託の無い笑顔でそう話す彼を、僕は心から最高だなと思った。彼の住むマンションにタクシーで向かい、そこからすぐに近くの汚い飲み屋へ。くそ虫のような話で盛り上がり、泥酔。僕の上海初日は、そんな感じで終わった。

 次の日は、ともちゃんが大学で一日いなかったから、昼からひとりで上海の街をぶらついてみた。で、やっぱ5秒ぐらいで飽きた。それでも頑張って一通り街を周って、夕方早めにマンションに帰宅。ともちゃんの帰りを待つ。午後7時過ぎ、彼が帰ってきた。さあ、飲みに行きますか。

 部屋の固定電話が鳴る。ともちゃんが出る。僕は家を出る準備をしている。ともちゃんが普段とは違う真面目な声で、僕を呼ぶ。「柴田、お前の実家から」

 電話先の母親から、おばあちゃんが亡くなった、という話を聞いているとき、僕はぼんやりとしていた。ぼんやりと、入院先のベッドで僕の手を強く握るおばあちゃんの姿を、思い出していた。

 僕は、翌朝の便で日本に帰ることになった。

 ともちゃんは気を遣って、僕に、ひとりになれる部屋を与えてくれた。僕は部屋の電気を点けたまま、敷き布団の上に大の字になって、天井を眺めていた。何も考えることができなかった。思考は、バリウムを飲んだ時の喉のだるさのように、鈍く、重たく、横たわっていた。

 突然、電気が消えた。そして、部屋がゆっくりと、確かに、暖かくなった。

 僕は、ああ、おばあちゃんが最後の別れを言いに来たんだな、って思った。それは確信だった。それは、とても自然なことで、疑いようのない事実だった。僕はおばあちゃんに、ありがとう、と伝えた。おばあちゃんは静かに微笑んでいた。僕は、泣いた。

 翌日どんな気持ちで空港に向かって、どんな気持ちで飛行機での時間を過ごしたのか、実家に着いてから誰と何を話したのか、不思議なくらい思い出すことができない。でも、あの夜のことは覚えている。僕を優しく包んでくれたあのぬくもりを、今でも僕は、はっきりと思い出すことができる。

耳をふさがれました

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