シチリア二日目。朝ご飯の前に街をぶらぶらと散歩する。朝のチーニジは、高く青い山々に囲まれた美しい田舎町だった。だからあんなに夜が暗かったのか、と思う。

 昨夜の夕飯は、街で唯一開いていたピザ屋で、ピザ二切れと水とビール。二人分で六ユーロ。そのピザ屋の近くに、新年の飾りつけなのだろうきらきらとした電球をまとった建物があった。石造りで、とても古そうだ。教会かと思ったけれど、それにしては大きすぎる。お城のような外観で、明滅する電球の光のせいもありちょっとしたラブホテルみたいに見えた。気になったので、朝の散歩はその建物を目指すことにした。

 明るい中で見ても、まさに小さなお城にしか見えなかった。扉は開いている。なんの建物なんだろう。気になったので中に入ってみる。きょろきょろとしていたら、階段の上に立っていたおじさんが声をかけてきた。イタリア語だった。わたしも夫も、イタリア語はぜんぜん分からない。

 おじさんは我々が理解していないのに気づくと、指を両目に当てて何かのジェスチャーをした。中を見るか、と言われているような気がしたのでうなずくと、ついて来い、のジェスチャーをした。わたしたちはおじさんのあとをついて古い階段を上った。

 二階に上ると、いくつもの小さな部屋があった。おじさんは部屋のドアをばんばんと開け、中を見せてくれる。部屋の中には大抵事務机が並んでいて、机に向かって何かしている人たちがいた。ほとんどの部屋は職員室みたいなつくりになっていたけれど、中には国旗がいくつも飾られていて大きくて立派な机が一つだけおいてある、大使館の一番偉い人の部屋みたいなものもあった。

「会社かな」「市役所かも」
 などと言いあいながら、わたしと夫はおじさんのあとを行く。突然ドアを開けられた人たちは驚いた顔をしてわたしたちを見ていたけれど、おじさんは気にせずばんばん開けていく。おじさんはよく喋る。途切れなくイタリア語で建物内の説明を続けるが、そのさい、いっさい笑うことはなく、博物館のガイドツアーに参加している気分になる。そしてもちろん、言っていることは全然分からない。

 建物と建物をつなぐ連絡通路のような場所に、銅像がいくつか飾られていた。天井はフレスコ画みたいだったり、お寺みたいに板の目に区切られて蓮みたいな花が描かれていたりした。今はオフィスのようなこの建物は、昔は貴族の住む豪邸だったのかもしれない。

 そこに飾られた芸術品を、おじさんはひとつひとつ説明をしてくれる。もちろんイタリア語なのでほとんど分からないけれど、一生懸命単語を聞き分ける。ポエッタ。あ、この銅像は詩人なんだ。ドクタ。この肖像画はお医者さんか。シシリー。シチリア出身なんだね、などと分かったふりしてうなずくと、おじさんも満足そうにうなずく。

 「ジャポネーゼ」
 いくつ目かの銅像を指して、おじさんは言った。こんなところに日本人の銅像が、と驚くと、おじさんは彼の説明を長々とはじめた。エンジニア、という単語しか聞き取れなかった。エンジニアの日本人が、シチリアの小さな町で銅像になっているのは驚きだった。名前も言ったかもしれないけれど聞き取れなかったので、彼が誰なのかは分からなかった。

 三十分ほどで建物のツアーを終え、おじさんは再びわたしたちを入り口まで送り届けてくれた。グラッチェ、チャオ、と繰り返しながらおじさんと別れる。おじさんは最初から最後まで一度も笑わず、一度もイタリア語以外を喋らなかった。

「日本人の銅像がチーニジに飾られてるなんてすごいね。そんなこと知ってる人、きっとほとんどいないよ」
 わたしが言うと夫も深くうなずいた。
「でもそれより気になるのは、あのおじさんは誰かってことだよね」
「明らかに偉い人の部屋のドアもばんばん開けてたよね」
「誰も怒らなかったし」
 ひょっとしたらあの人はものすごい人だったかもしれない。でも彼が誰だったのか、わたしたちにはもう、知りようもない。

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