1. Home
  2. 暮らし術
  3. 純喫茶図解
  4. 蔵前【らい】- 変わりゆく街でタイムレス...

純喫茶図解

2024.03.17 公開 ツイート

蔵前【らい】- 変わりゆく街でタイムレスな魅力を放つ大人の秘密基地 塩谷歩波

浅草から南にくだった先にある蔵前は、江戸時代に幕府最大の米蔵が置かれたことから発展した街だ。蔵前という名前も、米蔵にちなんでこの一帯を「御蔵前」と呼んだことが由来になっている。明治以降は玩具や雑貨などの卸問屋で繁栄したが、ここ数年はこだわりあるモノづくりのお店や整理券が必要なほど大人気の喫茶店が集まり、おしゃれな若者が集まる街にもなった。

 

お昼どき、ずらっと行列が続く喫茶店を横目に蔵前の街を北に抜け、大江戸線のちょうど真上を通る国道を歩いていく。生真面目に並ぶ四角いビル群の向こう側に、色褪せたピンクと白のストライプ柄テントがついた細長い建物がある。テントの右端には、リボンを折りたたんで描いたような「ら」と「い」の文字。ステンドグラスが埋め込まれた木枠の窓から中を覗き込むと、レトロな雰囲気たっぷりの温かな室内が見えて心が踊る。

斜めに建てつけられたドアを開けて中へ。優しい色合いのレンガが放射状に伸びる床、その上に置かれるいくつかの円卓と特徴的な観葉植物、壁には有名人をかたどるアートと雑誌やピンバッジが置かれた飾り棚。いわゆるレトロな純喫茶というより、趣味とこだわりが詰まった「大人の秘密基地」のような雰囲気だ。

低い天井とうなぎの寝床のような細長い構成に吸い込まれるように建物の奥へ行くと、そこには半地下と2階を結びつける吹き抜けがあった。その中央には、7つの丸い照明が葡萄の房のようについた端正な照明が吊るされている。手前が低い天井とやや暗い照明だったので、吹き抜けがさらに上に伸び上がるように感じられる。これはまさに、わざと暗く狭い空間から広い空間に出ることでより開放的な印象を演出した、名建築家フランク・ロイド・ライトの「トンネル効果」の手法。らいの設計者はそのことを知ってか知らずかは分からないが、建築マニアとして大興奮ポイントの一つである。

案内されたのは吹き抜けを囲む2階の席。少し急勾配な階段を注意深く登っていくと、壁にうずまる動物と目があった。いや、違う。よく見ると鉄で作られた壁画だ。太陽を背にした鹿のような生き物が、黄色味がかった壁の中を自由自在に闊歩している。その壁画の隣には、バブル前後期を想像してしまう古いゲーム機。どんな用途かは不明だが(店主も分からないそうだ)カラフルなボタンで彩られる様はファンキーで少し可愛らしい。謎めいていてでも茶目っ気のある壁画、レトロなゲーム機、そして吹き抜けに吊るされた整った美しさがある照明。モノとして統一感があるわけではないのに、互いに調和しきっていてホッと落ち着く空間になっているのが不思議で楽しい。

吹き抜けを囲む手すり脇の席に座って、1階を見下ろす。2階の床や吹き抜けの壁の合間から、窓の光に照らされてグラデーションのように色が変わるレンガの床の様子がよく見える。その景色が美しくて愛おしくて、「ほぅ……」とため息をついてしまう。なんて素敵な空間なんだろう。

純喫茶「らい」は1962年にオープンした。飲食店を経営していた次姉の勧めから、初代店主の中島義夫さんは実家近くのこの場所で喫茶店を始めることを決めたそうだ。当時のらいは若者が集う喫茶&バーで、下町にとって異色の存在だった。スープにつけあわせるタバスコを出せば「ケチャップが腐っている」と言われ、今では熱狂的なファンがいるほど人気のペリカンのパンをトーストで出したら「小さすぎる」と言われる。建物自体もオーソドックスな純喫茶のイメージではなくコーヒーショップの雰囲気を目指し、床をレンガにしたり、壁画を設けたり、JAZZが流れるスピーカーを設置したりと細部までこだわっていた。

「流行を追うのではなく、気がついたら最先端にいた」

過去のインタビュー記事で、中島さんはそのように語っている。今現在は、亡くなった中島さんに代わり、娘さんの西川し乃さんが二代目店主だ。現在の営業時間は9:00~17:00と18:00~23:00の二部に分かれていて、夜はお姉さんの一乃さんがショットバーを経営している。

2年前に二代目へと受け継がれ、2024年で64年目となるらいだが、建物も味もそのまま。初めは「小さすぎる」とお客さんに指摘されたトーストも、今ではらいの看板メニューだ。午後には売り切れてしまうほど人気のペリカンのパンをカリッと焼いて、ハチミツと合わせた一見シンプルなメニュー。面白いのは、直接トーストにハチミツをかけるのではなく、別のお皿にハチミツを入れて提供していること。トーストをちぎってハチミツにつけて食べるので手がベタベタにならないし、プレーンなパンそのものの風味も楽しめる。ハチミツがかかってトロトロになったトーストも良いけど、パンのふわっサクッ感を最後まで楽しめるのはパン好きとして魅力的な一品だ。そして、トーストに合わせるのはホットコーヒー。「らい」のロゴが刻まれたカップは、シンプルなのにとても可愛い。一つ一つハンドドリップで入れられたコーヒーはホッとする味わいで、しかしトーストの味わいを邪魔せず、相性は抜群だ。

ここ数年でおしゃれなカフェが立ち並び、街として魅力を増している蔵前の中で、らいはこの先どのように進んでいくのだろう。中島さんは「流行を追うのではなく、気がついたら最先端にいた」と話していたという。たしかに、いち早くペリカンのパンを取り入れたり、高性能なスピーカーを取り入れたりと、先見の明があったに違いない。しかしながら、それは流行の先端にいるというよりも、らい独自の魅力になっていると思う。

蔵前はこの先さらにおしゃれな街として進化していくだろう。らいは、そんな変わりゆく蔵前に馴染もうとするのではなく、このままであり続けてほしい。それが“おしゃれ”や“新しい”や“レトロ”といったカテゴライズされた価値観ではなく、「らい」という独自の魅力になり続けるだろう。

この建物も、どうかこの魅力を残したままであってほしい。吹き抜けから見下ろす景色に再度ため息をつき、最後のコーヒーを飲み干した。

{ この記事をシェアする }

純喫茶図解

深紅のソファに煌めくシャンデリア、シェードランプから零れる柔らかな光……。コーヒー1杯およそワンコインで、都会の喧騒を忘れられる純喫茶。好きな本を片手にほっと一息つく瞬間は、なんでもない日常を特別なものにしてくれます。

都心には、建築やインテリア、メニューの隅々にまで店主のこだわりが詰まった魅力あふれる純喫茶がひしめき合っています。

そんな純喫茶の魅力を、『銭湯図解』でおなじみの画家、塩谷歩波さんが建築の図法で描くこの連載。実際に足を運んで食べたメニューや店主へのインタビューなど、写真と共にお届けします。塩谷さんの緻密で温かい絵に思いを巡らせながら、純喫茶に足を運んでみませんか?

バックナンバー

塩谷歩波

1990年、東京都生まれ。2015年、早稲田大学大学院(建築専攻)修了。設計事務所、高円寺の銭湯・小杉湯を経て、画家として活動。

建築図法”アイソメトリック”と透明水彩で銭湯を表現した「銭湯図解」シリーズをSNSで発表、それをまとめた書籍を中央公論新社より発刊。

レストラン、ギャラリー、茶室など、銭湯にとどまらず幅広い建物の図解を制作。

TBS「情熱大陸」、NHK「人生デザイン U-29」数多くのメディアに取り上げられている。

2022年には半生をモデルとしたドラマ「湯あがりスケッチ」が放送された。

著書は「銭湯図解」「湯あがりみたいに、ホッとして」

好きなお風呂の温度は43度。

この記事を読んだ人へのおすすめ

幻冬舎plusでできること

  • 日々更新する多彩な連載が読める!

    日々更新する
    多彩な連載が読める!

  • 専用アプリなしで電子書籍が読める!

    専用アプリなしで
    電子書籍が読める!

  • おトクなポイントが貯まる・使える!

    おトクなポイントが
    貯まる・使える!

  • 会員限定イベントに参加できる!

    会員限定イベントに
    参加できる!

  • プレゼント抽選に応募できる!

    プレゼント抽選に
    応募できる!

無料!
会員登録はこちらから
無料会員特典について詳しくはこちら
PAGETOP